特に、現代の都市生活は電気に支えられている。停電になったら水も止まり、生活インフラは壊滅状態になるし、交通にも多大の支障が出る。まず困るのは、水・食料とトイレだろう。人間は、飲食して排泄する生き物であるから。最低、3日分程度の備えはあった方が良い。節約して使えば一週間程度はもつかも知れない。

その他、詳細は省くが、本書では現代社会の状況が震災を増幅する有様と、膨大な被災地の救済が困難になる様子が詳しく述べられている。それらを軽減するには、東京一極集中を解消すべく努力する必要があると。むろん、関西の大阪圏もであるが。

第7章は「『超広域大震災』にどう備えるか」で、ポストコロナの日本社会のあり方を論じている。本書の著者は「それを一言で言えば、経済成長至上主義のもとで集中・大規模・効率・高速などをよしとしてきた従来の価値観をあらため、分散・小規模・余裕(ゆとり)・ゆったりなどを社会の基本に据えるべきだと思う。」と述べている。まったく、同感である。

さらに「日本を地震に強い社会に変革するために、第一次産業の復権と分散型国土の創出、成長信仰からの脱却と国際分業・自由貿易至上主義の是正、過度の観光立国の見直しなどを訴えた」とある。本書には、これらの具体的な内容も詳しく述べられている。

産業は、単に経済効率優先の国際分業主義に頼らず、非常時に生活に必須となる「基礎的産業」を平時も一定レベルで健全に維持すべきであると。これらは実は、筆者もまた長年、環境問題やエネルギー政策を研究し考える過程で思ってきたことと、ほぼ全部同じなのである。

石橋博士は、地震学の専門の立場から、地震災害に強い社会の姿を構想する過程で上記の考えに達したようだが、環境・エネルギー関連を追究してきた筆者も、同じ結論に行き着く。

もう少し踏み込むならば、環境・エネルギー問題関連を追究してきた結果、あるべき姿に障壁として立ち塞がるのは、種々の新自由主義的政策や考え方であり、経済成長至上主義のもとで集中・大規模・効率・高速などを追求してきた価値観そのものなので、これを改善して持続可能な社会を構想するとすれば、分散・小規模・余裕(ゆとり)・ゆったりなどを社会の基本に据えるしかないと考えるのである。経済についてはこれまで論じてこなかったが、詳しくは後日、続編を書きたい。

この章にはさらに「人・職業の再配置と『労働者協同組合』への期待」と題する興味深い一節がある。そこには、現在の経済学に対する鋭い批判がある。一例として「自由貿易論議では第一次産業もビジネスとしか見ないが、大地や海原の恵みを収穫する農林水産業は、その場所に生きることと一体である。」という文章がある。

筆者は、この文を非常に美しいと思う。科学・技術が進歩すれば自然も環境も何でも征服出来ると思うような人間には、このような文章は書けない。また「経済学ではしばしば、労働の人間性が無視されている点が納得できない」ともある。この点にも筆者は深く共感を覚える。

そして最後の第8章が「リニア中央新幹線の再考を」となるのは、必然の帰結である。その根拠は、これまで書かれてきたことと同じなので繰り返さない。もう一つ印象的な文章を引用しておこう。

リニア計画は多くの点で原発とよく似ている。すなわち、国策民営であり、御用学者からなる審議会の杜撰な審査でゴーサインが出され、大手マスメディアが推進側に取り込まれていて真実を伝えず、専門家の批判も弱く、推進側が情報を隠して安全神話をふりまき、したがって一般市民は「夢の超特急」というイメージしか与えられず(中略)、事業者(JR東海)が住民軽視で強引に事業を進めている。

そして「あとがき」にも「今は、人間にはやってよいことと、やってはいけないことがあると思う。」という、鋭い文章がある。

以上、駆け足の紹介になったが、まとめとして、本書は単に地震防災の本と言うよりも、日本の科学技術政策論、あるいは文明論としても読める貴重な書籍である。