そういう高校野球などの応援グッズのようなものを、ロシアと戦争を行っている当事国のウクライナに持って行くというのは非常に違和感がある、とまず思った。

戦争と高校野球などのスポーツの応援とでは全然意味合いが違うではないか、というのが最初の率直な印象だ。そういう最初の印象をツイートしたところ、それに対して、以下のようなツイートで反論があった。

必勝とは文字どおり必ず勝て、という意味で、これは「日本がウクライナを支持し勝利を願う」という強いメッセージです。必勝しゃもじの由来は日露戦争ですから、尚更です。これをさりげなく縁起物を装ってウクライナに渡すというのは、この上なく見事な外交だと思います。

私は、正直なところ、「必勝しゃもじ」の由来が日露戦争だということは知らなかった。改めて調べてみると、確かに日露戦争の時に、戦勝を願う兵士たちが宮島にこのしゃもじを奉納した、そして実際に日露戦争で日本が勝ったということで、必勝を実現する、敵を召し取る「必勝しゃもじ」ということになった、というのが由来だったことが分かった。

もともと、そういう由来で「必勝しゃもじ」になったことは今の広島人にはあまり認識されることなく、「応援グッズ」や「縁起物」として使われてきたというのが、実際のところだろう。

では、岸田首相は、多くの広島人の感覚と同様に、「応援グッズ」「縁起物」として、ウクライナに「必勝しゃもじ」を持っていったのか、それとも、日露戦争での兵士の戦勝祈願と実際に勝利したことに由来するということで、今ロシアと戦争を行っているウクライナに持っていったのか。

もし、前者だとすれば、悲惨な戦争の最中に、応援グッズをウクライナにもっていくというのはあまりに軽薄だ。一方、先程のツイートで書かれていたように後者だとすると、ぞっとする程恐ろしい行動だ。それを知れば、広島人は、どう受け止めるだろうか。

多くの日本人にとって、広島の過去については、終戦の直前の忌まわしい原爆投下で膨大な人が犠牲になった時点以降の認識しかないだろう。それ以前の広島がどういう都市として発展したのか、戦前の日本にとって、広島がどういう位置づけだったのか、ということを知る人はあまりいないだろう。

広島は、日清戦争の時代、戦争の最高指導機関である大本営が東京から広島に移され、明治天皇も滞在した。日清戦争の戦費を審議する臨時帝国議会を広島で開催するため、仮の国会議事堂も建てられた。日露戦争以降、太平洋戦争に至るまで、広島はまさに、戦争に向けての拠点である「軍都」として発展したのだ。

そういう広島の宇品港に陸軍の船舶司令部があり、上陸用舟艇などをそこで建造していたのだが、それがいかに陸軍にとって重要な拠点であったか、そこでの司令官たちの苦悩を描いた【暁の宇品】という本がある。ジャーナリストの堀川恵子さんが書いた大変優れたノンフィクションだ。