旧日米安保条約の不備
ちなみに、サンフランシスコで対日講和条約が調印されたのと同じ日に、吉田首相は別途、日米安全保障条約にも調印しました。これは、非武装化された日本を防衛するために、占領終了後も米軍は引き続き日本に駐留し、基地を使用することができるという条約です。

サンフランシスコ平和条約に署名する吉田茂と日本全権委員団Wikipediaより
しかし、この条約では、米軍が日本に基地を持つ権利を明確に定めたものの、米国が日本を外国の攻撃から防衛する義務を負う点については明確ではありませんでした。
この重大な不備に気づき、ここを改正するために立ち上がったのが、長州閥の流れを継ぐ岸信介首相(昨年夏亡くなった安倍首相の祖父)で、彼は、安保条約改正に反対する学生や労働者の猛烈な抗議運動(安保闘争)を押し切って、1960年に条約改正を達成しました。
当時大学4年生だった私は、友人たちにしつこく誘われましたが、反対デモにはついに一度も参加しませんでした。デモに参加した学生の殆どが条約の本文を読んだこともなく、全学連を中心とする過激な反対運動にはどうしても同調できなかったからです。翌年私は外務省に入省。
「全面講和」と「単独講和」実は、日本国内では、サンフランシスコ講和条約が締結される前から、「全面講和」か「単独講和」かをめぐって意見が鋭く対立、国論は二分されていました。
例えば当時の南原繁東大総長(カント哲学専門の政治学者)らリベラル派の学者たちは熱心に「全面講和」を主張しました。吉田首相は彼らを「曲学阿世の徒」と呼んで軽蔑していましたが、当時中学生だった私は、わざわざ豊橋市公会堂での南原先生の講演を聴きに行った記憶があります。
「全面講和」というのは、ソ連など共産圏諸国を含むすべての連合国との講和、「単独講和」は自由主義諸国とだけの講和という意味です。前者が望ましいのは確かですが、現実の国際政治状況から見て明らかに理想論であって、日本はすでに米国を中心とする西側自由主義陣営にしっかり組み込まれていたのです。
ソ連(現在のロシア)は結局サンフランシスコ条約調印を拒否したまま、現在も日露間には平和条約が締結されていません。1956年の鳩山一郎首相(鳩山由紀夫元首相の祖父)の訪ソにより両国の国交は正常化されたものの、北方領土問題をめぐる対立は続いており、平和条約締結のめどが立っていないのが現状です。
日本は米国の属国になったのか岸内閣による安保改正時の反対運動も、基本的に、この「全面講和」か「単独講和」の対立の延長線上に位置付けられるもので、反対派の主張の最大のポイントは、日米安保体制によって、日本は米国の「属国」になった、「向米一辺倒」で外交の自立性を失い、米国の戦争に巻き込まれる惧れがあるから危険だというもの。
こうした考えは、21世紀の現在でも、日本国内には、いわゆる左翼政党や新聞だけでなく、一般国民の中にも根強くあるのではないかと思います。それが最も端的に現れたのは、1960年代のベトナム戦争の時です。
こうした複雑微妙な日米関係の変遷を振り返りつつ、ウクライナ戦争で激動する現下の国際政治状況下で今後両国関係をどう発展させていくべきか、次回でじっくり考えて行きましょう。
(2023年3月27日付東愛知新聞令和つれづれ草より転載)
編集部より:この記事はエネルギー戦略研究会(EEE会議)の記事を転載させていただきました。オリジナル記事をご希望の方はエネルギー戦略研究会(EEE会議)代表:金子熊夫ウェブサイトをご覧ください。