日米友好関係が対立関係に

そもそもペリーやハリスが日本にやって来たのも、太平洋での捕鯨活動のための補給基地として開港させるのが主目的で、日本に領土的野心があるとか、日本の内政に干渉して属国化しようという意図は少なかったと思われます。

当時米国では、1800年代初頭以来東部から大陸を横断して西部の「フロンティア」(新天地)開発を目指した西進活動が盛んでしたが、カリフォルニアでの金鉱発見・ゴールドラッシュ(1848年)をピークに、西部開拓が一段落したので、次第に太平洋に目を向け始めました。その先兵となったのがペリーやハリスだったというわけです。

伊豆急下田駅で展示されるサスケハナ号の模型出典:Wikipedia

その後、米国はスペインとの戦争(米西戦争1898年)で勝利した結果、ハワイ、グアムやフィリピン等を手に入れ、太平洋進出の拠点を築きました。

他方、明治維新後の文明開化、富国強兵政策で力をつけ急速に近代国家の仲間入りした日本は、日清、日露戦争での勝利で、軍事大国化への道を突進しました。

そうした日本と米国は、やがて、第一次世界大戦以後、太平洋を舞台に激突し、ついに 太平洋戦争(大東亜戦争)へと展開していくわけですが、このような日米の対立の歴史を振り返るとき、私は、いつも、歴史上の「イフ」を考えてみたいという衝動にかられます。それは、先述の岩瀬忠震に絡むものです。

もし岩瀬忠震が生きていたら

岩瀬忠震Wikipediaより

つまり、もし幕末に対米交渉を担当し、ハリスとの交流を通じて米国通になっていた忠震が、将軍継嗣問題で井伊直弼に睨まれ、失脚させられることなく、あのまま外国奉行(現在の外務大臣)にとどまり、新生日本の外交の舵取りを任せられていたとしたら、日本はどうなったか、日米関係はどのような推移を辿ったか。

私は、進取の気性と豊かな教養を身につけた当代第一級の政治家・外交官(島崎藤村「夜明け前」)だった忠震なら、薩長の武骨な田舎侍連中(失礼!)と違って、日米協調により、バランスの取れた、もっとスマートな外交戦略を構築しえたのではないか。そうなれば、日本は、「アジアの君子国」(昔そういう言葉が流行った)として、良識ある大国となり、国際社会で重きをなしていたのではないかと想像します。

その意味で、日本は大事な時期に貴重な人材を失ったと嘆かざるを得ません。

薩長主導日本の暴走と敗戦

ついでに言えば、明治以後の日本帝国陸軍は、伝統的に山県有朋、海軍は東郷平八郎、政治は桂太郎、外交は松岡洋右などが幅を利かせ、大きな影響力を発揮しましたが、いずれも薩摩、長州の出身者でした。

岩瀬忠震のような徳川幕府を支えた三河勢は、明治以後、政治・外交・軍事の中枢から外されてしまいました。もし、深謀遠慮主義の徳川家康の伝統を受け継ぐ三河勢が健在だったならば、近代日本の進路は大きく異なっていただろうというのが、三河出身の私の推論です。

ところが、実際の歴史は全く逆で、日本は米国と太平洋の覇権を争って、先制攻撃を仕掛け、ついに完膚無きまでに叩きのめされました。

1945年9月2日、東京湾の米戦艦ミズーリ号上で、降伏文書調印式を司会したダグラス・マッカーサーの脳裏には90余年前のペリーがあったはずで、あの時旗艦サスケハナ号に掲げられていた星条旗が当日ミズーリ号に掲げられていたことはよく知られています(現在はメリーランド州アナポリスの海軍兵学校の博物館に展示されており、私も一度実物を見たことがあります)。

マッカーサーの占領政策の功罪

さて、そのマッカーサーは戦後6年間連合軍最高司令官として占領下の日本に君臨し、日本を「平和国家」に作り変えました。

当初、彼は日本を「東洋のスイス」にしようとして、戦争放棄条項(第9条)を含む新憲法を押し付けました。しかし、僅か2年後に朝鮮戦争(1950〜53年)が勃発し、国際政治状況が米ソ対立、冷戦という形で大きく変わったため、米国の占領政策は一変し、日本は再軍備を求められました。

これに対し、時の吉田茂首相は、憲法9条を逆手にとって抵抗し、「軽武装・経済優先」路線を選択します。このいわゆる「吉田ドクトリン」が戦後77年間日本外交の基本として今日まで踏襲されているわけです。