他国を巻き込む女系継承

征服王ウィリアム1世の跡を継いだウィリアム2世は独身のまま狩りの最中事故死したので、弟が王位を継ぎ、ヘンリー1世となった。ヘンリー1世は娘マティルダを後継者に指名したが、ウィリアム1世の娘アデルとフランス貴族ブロワ伯の間に生まれたスティーブンが異議を唱え、英国王として即位する(1135〜1154年)。これをブロワ朝と呼ぶが、英国内は混乱し、無政府時代と広く呼ばれる。

スティーブン派とマティルダ派の争いの結果、スティーブンが嫡男を失ったこともあり、マティルダが嫁ぎ先のフランスのアンジュー家で生んだ息子アンリを後継者にすることで問題は解決した。こうしてフランス貴族のアンジュー伯アンリが英国王ヘンリー2世として即位し、プランタジネット朝(アンジュー朝)が始まる。

このように英国王家には当初から男系女系の拘りというものがない。とは言っても、女系で王位を継承した際、王家の家名つまり王朝名を変える原則は守ってきた。

十字軍の遠征で知られるリチャード1世(獅子心王)はプランタジネット朝2代目の国王である。リチャード1世は、ヘ ンリー2世とフランスのアキテーヌ女公アリエノールとの間に生まれた。この女性の前夫はフランス王ルイ7世であったが、アリエノールの所領はフランスの3分の1ほどあり、フランス王家の所領よりも広大だった。

ヘンリー2世はアリエノールと結婚することで、フランスのアキテーヌの地を手に入れ、その2人の子であるリチャード1世は父と母から英国とフランスの広大な領地を相続したのである。女系継承なくして、この英仏を跨ぐ広大な「アンジュー帝国」の成立はあり得なかった。

英国の内紛

その後、英国ではプランタジネット朝の流れを汲むランカスター朝、ヨーク朝が続くが、ヨーク朝最後の国王リチャード3世はランカスター派との戦いに敗れ、30年続いた両家による「薔薇戦争」は終わった。リチャード3世を打ち破ったヘンリー・チューダーがヘンリー7世として即位した(チューダー朝)が、王位継承の根拠は、彼の母親がランカスター家傍系のボーフォート家の出身であったことであった。つまり女系継承である。

父はリッチモンド伯エドマンド・チューダーでフランス王家の血も引く家柄ではあった。だが、これも、元は下級貴族に過ぎなかった祖父オウエンがヘンリー5世の未亡人キャサリン(フランス王女)と結婚したためである。やはり、継承の根拠が弱いと考えたのか、ヘンリー7世は、ヨーク朝のヘンリー4世の娘エリザベス・オブ・ヨークと結婚することでランカスター家とヨーク家の和解を実現し基盤を固めた。

このように英国の王位継承には戦争や内紛が付き物で、勝者が男系女系関係なく王位を継承する例がしばしばあった。強者にとっては、女系であっても血縁によって王位継承権を主張できる方が都合がよかった。ただ、この時点で女王はまだ現れていない。

女王と継承問題

英国で初めての女王が即位したのはこのチューダー朝の時代である。かの有名なヘンリー8世の王女、メアリー1世が英国初の女王であり、その跡を継いだ異母妹エリザベス1世も女王だ。この2人には子がおらず、王位は隣国のスコットランド王ジェームズ6世に渡り、英国王ジェームズ1世として即位する。これも女系継承で、この王朝はスチュワート朝と呼ばれる。

この名前は、皮肉なことに、エリザベス1世に対し、「庶子」と言い放ち、英国に亡命しているにも拘らず女王暗殺未遂事件を起こし処刑されたメアリー・スチュアート、つまりスコットランド女王メアリー1世に由来する。このスコットランド女王は、ダーンリー卿ヘンリー・スチュアートと結婚したことから、メアリー・スチュアートと呼ばれた。

実は、ヘンリー8世の妹マーガレットがスコットランド王に嫁いでいたため、メアリー・スチュワートは英国王家の血を引いていた。そして彼女はエリザベス1世に対して、正統な英国王でないと言い放ち、自らが正統な英国王位の継承者であると主張したのである。

確かに、エリザベス1世の母アン・ブーリンはヘンリー8世の愛人で、その2人の結婚も曰く付きのものであったため、エリザベスを「庶子」と見なす人々がいたのは確かだ。当時、男系か女系よりも嫡子か庶子かの方が後継問題としては余程重大であった。

かくして、メアリー・スチュアートとエリザベスの確執が始まったのである。皮肉なことに、生涯未婚で通したエリザベス1世が自らの継承者に指名したのがメアリー・スチュアートの息子スコットランド王ジェームズ6世だったというわけだ。