■ 気候正義
環境活動家が主張する気候正義とは、世界各国が、気候変動による負荷を正当に認識し、その軽減に対する責任を公正に分担し、損害に応じて公平に補償することを正義とする概念です。
その認識はステレオタイプ化していて、温室効果ガスの排出によって利益を得てきたのは先進国と新興国あるいは富裕層であり、気候変動対策に対する応分の責任と、気候変動による被害を強く受けている途上国あるいは貧困層に対する補償が必要であるとするものです。
この認識は、前提とする事実が真である限りにおいては【正義 justice】の原理に適っています(「正義」の定義)。先進国と新興国あるいは富裕層の有用的善に従った行動が途上国あるいは貧困層の有用的悪になるのであれば、それは【危害原理 harm principle】に従って与えた危害を補償するのが正義です。
しかしながら、現実世界はそれほど単純ではありません。気候正義には次のような重大な問題点が含まれています。
① 多くの論点において、前提が論理的に真であることが科学的に立証されていないこと ② 国という空間的単位を基準とする気候変動対策の責任分担の効率性が低いこと ③ 科学技術の時間的発展を無視したデッドラインの設定はリスクの過剰評価に繋がること ④ ネットゼロを善とする考え方に論理的根拠が薄弱なこと ⑤ 有用的善に依拠した正義が道徳的善に依拠した正義に混同されて独り歩きし易いこと
特に④⑤は、正義というよりは特定の善を至上命令とする【モラリズム moralism】的な思考によって生じる問題です。環境活動家は、しばしば、論理的な議論を阻害する【怒りに訴える論証 appeal to anger】によって気候正義を振りかざすことで大衆を従わせるのです。
社会において特定の【倫理 ethics】が支持されると、それは社会の【道徳 morality】となり、社会の構成員がこれに従うことを半強制されることになります。その道徳に従わないと悪の存在と見なされるからです。その意味で、専門家が自らを無謬の存在と認定し、束となって「〜すべき」という倫理を導いている『The Climate Book』は必ずしも客観的な文献とは言えません。
純粋な理学として気象の長期変動を対象とする気候学分野は、社会的ニーズが高い気象の短期変動を対象とする気象学分野とは異なり、人々の注目を集めてこそ発展が可能となる分野です。気候学の専門家にとって、自らの研究対象の問題をより深刻に語って強い警鐘を鳴らすことは、彼らの存在意義をよりアピールすることに繋がります。
重要なのは「〜である」という言説のみに着目し、「〜すべき」という言説については、それが専門家としての有用的善に基づく論理的帰結であるのか、一般人としての倫理的善に基づく倫理的帰結であるのかを見極めることです。後者の場合にはあまり意味がありません。
一方、自ら科学を実践した経験がなく、科学的な研究結果を懐疑的に批判する精神が欠如しているトゥンベリ氏は、専門家の主張を100%正しいとする【権威に訴える論証 appeal to authority】と政治家と資本家を悪魔化した【人格に訴える論証 ad hominem】と市民の感情を操作する【感情に訴える論証appeal to emotion】という非形式的誤謬を最大活用して自説を正当化しています。
環境活動家は自説を実現させてこそ承認欲求を満足することができ、マスメディアは商売することができます。彼らが語る「〜である」は学者の受け売りであり、基本的には「〜すべき」しか主張していないことに注意が必要です。