先日、朝日新聞の#論壇に『「科学による政策決定」は隠れ蓑?』という興味深い論考が載った。今回は、この記事を基にあれこれ考えてみたい。

この記事は、「世界」2月号に載った神里達博氏の「パンデミックが照らし出す『科学』と『政治』」という論考を題材として、コロナ対策とそのための政策決定における各種の問題点を論じたものだ。

理想的な姿としては、もちろん「正しい科学的な根拠に基づく合理的判断による政策立案」であるのだが、コロナ対策に関してはその通りにはならなかったし、それは科学技術政策全般に見える日本的な現象であると。「大局的な見地に欠け、政治家が政治責任を負う根本的な対策をしていない。」とも(横山広美・東大教授の指摘)。

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確かに、新型コロナ対策に関して、我が国の政策は終始一貫、科学的な整合性を欠いた「つぎはぎだらけ」なものだった。筆者から見ても、政府が指名した「専門家」たちからなる「分科会」がその責任を果たし得たかといえば、首をかしげざるを得ない。結果的に、政治判断の「隠れ蓑」に使われたと言われても仕方がない。

「分科会」は、ノーベル賞科学者数人が共同で提案した政策提言をも、ほとんど無視でやり過ごし、的確な感染防止対策を打ち出せずに、事実上何もせずに近い形の「成り行き任せ」で過ごした。「ワクチン、打て打て」だけは言ったが。

なぜそう言えるか? それは、これまでのコロナ感染者数の経過図を見る限り、何度も感染の「波」が訪れたが、波はまるで自然現象のように上下し、人間の手でその波が何らかの「変形」を受けた=対策が何らかの効果を示した、ようには見えないからである。

単に「注視」するばかりで、何ら有効な手段を講じることもなく時を過ごしたとしか見えない。むろん、分科会の当事者たちには、言いたいこともたくさんあるだろうけれど。その間、コロナウイルス自体も変幻自在に変異を繰り返し、感染性や病原性を変え続けた。

実を言えば、筆者はことコロナに関しては、中村祐輔先生のブログを参照して勉強していた。手に入る限りのデータを基に、その時点で最善と思える科学的・合理的推論を積み重ねるその姿勢は、我々の範とすべきものであり、政府や分科会もここに書かれている提言を受け入れたら良いのに・・と常々考えていた。これこそが「科学的な政策立案」であると。日本では「正論」が通じない、一つの典型例だとも見ていた。

しかし一方、筆者の考えでは、コロナ問題は我が国の「科学技術政策」を問う対象として相応しいのか? との疑問を感じざるを得ない。何故なら、コロナは、あまりにも「分からない」から。それは単に、筆者が新型コロナの専門家ではないから、なのではない。

コロナをめぐる情報は洪水のように溢れ、正直言ってどれが本当なのか容易に分からない。ウイルスの起源について、当初、トンデモ説と言われた武漢研究所からの流出説が、意外に本当らしいことが明らかになり、ワクチンについても、実に種々様々な論説が行き交い、それぞれが「これが本当だ」と主張するので、普通の民間人には判別しがたい。マスコミ等ではしばしば「正しい情報を」と言うが、どれが「本当に正しい」のかよく分からないのだ。

例えば、世界中でウイルスの遺伝情報解析などが行われているが、それらの情報は一般人には入手困難だし、入手出来ても、その意味を判別するのはさらに難しい。死亡率その他の統計データも、どれが正しく実情を表しているのか判断が難しい。地球温暖化関連なら、割と簡単にネットなどから信頼できる気象関連データ等が入手できるのと対照的である。