三河の地名の由来
次に、三河という地名の由来について。私はうかつにも、長年三河とは「三つの川」という意味で、それは矢作川、豊川と、もう一つのどこかの川だと思い、それはどこの川なのだろうかと詮索してきました。
ところが、いろいろ調べてみると、三河(大昔は参河とか三川とも表記)は、元々矢作川の美称で、「御河」と呼んだからだとか、矢作川の支流の一つである「巴川(ともえがわ)」あたりを指す地名であったらしいとか、いろいろな説があるようです。この巴川は、巴山から発し、岡崎市内を流れる乙川(男川)の源流でもあり、この川が現在新城市と岡崎市の境界にもなっているそうです。
大昔、東征に向かう日本武尊(やまとたけるのみこと)がこの川べりに立ち、巴状に水が流れるのを見て名付けたとも言い伝えられているとか。また、12世紀初めに三河国の国司となった歌人の藤原俊成は、この地域を視察した際に「つるきたち 三河の水の みなもとの 巴山とは ここをいふなり」という歌を詠んだそうで、歌碑が巴山頂の神社に建っている由。何となく風景が想像できる気がします。

歌碑のある巴山白髭神社の御神体出典:奥三河観光ナビより
というわけで、地名の由来については諸説あり、はっきりした定説はないようですが、私が調べた範囲では、この三河=巴川説が一番確かなように思われます。いずれにせよ、豊川、矢作川、巴川とも、愛知県の屋根と言われる段戸山の山塊に源流があり、そこに目を付けて壮大なスケールで歌い上げた志賀重昂はさすがだと感心します。
なお、三河は奈良・平安時代は「穂国(ほのくに)」とも呼ばれていたとのこと。
三河武士と「三河屋」さて話を本題に戻して、三河出身の家康は、信長、秀吉亡き後、晴れて征夷大将軍に任命され、関東平野に本拠を置き、江戸幕府を開きますが、そのとき、家康や諸将に従って、三河の武士たちも一族郎党を引き連れてはるばる江戸にやってきました。いずれも戦国の乱世を質実剛健、武勇一筋で生き抜いてきた強者ばかりでしたが、幕府の土台が固まり、平和な時代が始まると、当然様子が一変します。もはや以前のように合戦で活躍して殿様からそれなりの恩賞をいただき、それでいっぱしの暮らしをしていくことはできなくなりました。
そこで、殿様から、お前らも今後はまともに働いて自分の食いぶちくらいは自分で稼ぐよう努力せよと言われて、しぶしぶ商売を始めるのですが、なにせ士農工商の身分制度の頂点にあぐらをかき、威張って暮らしてきたので、商売のやり方がわからない。というより、そもそも、人にぺこぺこするのが苦手。つまり典型的な「武士の商法」で、うまくいくはずがなく、いろいろ仕事を始めてみても長続きしません。
それでも、江戸の下町に住み着いた一般の下級武士たちが、見よう見まねで何とか営業できたのが、米屋、魚屋、酒屋、味噌屋など。江戸時代中期になると、薩摩、長州、土佐などからすご腕の政商や豪商(高利貸し)が現れ、やがて三井、三菱のような大財閥にのし上がっていきますが、三河武士でそこまで成功した例はなかったようです。現在でも東京の下町や山の手、例えば私が長年住んでいる世田谷あたりでも、懐かしい「三河屋」という看板を掲げた店が時々目につきますが、それらは大方米屋、酒屋、魚屋のような小口の専門店です。
ただ、それも昭和の終わりころまでで、近年ではスーパーやコンビニに食われてしまって閉店・廃業が相次いでいるようです。私の朝の散歩道にもそうした「三河屋」がいくつかありましたが、最近はめっきり少なくなって、寂しい限りです。
ちなみに、かなり前ですが、「三河屋」は、テレビアニメ「サザエさん」でも取り上げられ、それがきっかけで、2012年2月に「全国三河屋さんサミット」が東京で開催されたことがあります。これを主催したのは「WE LOVE MIKAWA」という東京在住の若い三河出身者の任意団体。会場は港区赤坂の豊川稲荷神社。当日は、屋号の由来やお店の歴史を語り合ったり、特産品の試食会を実施したりして大いに盛り上がったと聞いています。
この団体は、このほか、時々集まってごみ拾いや清掃などのボランティア活動も行っていたようですが、現在はあまり会員が集まらず活動を休止している模様。ぜひ頑張って復活させてほしいものです。
三河弁が現代標準語の元?ついでにもう一つ。江戸に住み着いた三河人たちは当然三河弁で日常会話をしていたので、その方言(アクセント)が徐々に江戸かいわいに広がっていったと考えられます。三河弁は、私も子供時代普通に使っていましたが、語尾に「のん」「だら」「りん」などがつきます。呼びかけるときは「あののん」、相づちを打つときは「そうだら」という具合で、何となく素朴で愛嬌があるものの、いささか泥臭く、田舎臭い感じは拭えません。
そこで、江戸に住み着いた三河出身者たちが改良を重ね、さらに明治維新で東京と改名されてからは、国の指導もあり、次第にハイカラになっていきます。その結果、「のん」は「ですね」とか「ですよ」とかに変化。つまり語尾に来る助詞が変わっただけで、全体のアクセントやイントネーションはそれほど大きく変わっていません。それが、日本語の標準語になって全国に広がっていったと考えられます。
私は言語学の専門家ではないので断定はできませんが、どうも現在の標準語の原型は三河弁だという感じがしてなりません。もしそうであれば、我々現代の三河人はもっと自信を持って良いのではないかと思います。ただし、だからと言って、三河出身者が昔流の三河弁を東京でも堂々と使うべきだなどというつもりはありません。大阪弁や京都弁は、テレビタレントやお笑い芸人などが東京でも大ぴらに使っており、あまり違和感がありませんが、三河弁はちょっと、という感じなので、まあ、東京では使わないでおきましょう。なお、三河弁が標準語の原型だという私の仮説について、何か異論や異説がある方は是非ご教示ください。