宗教はそこに切り込む。
どう理屈を掲げようと、如何なる教えであろうと、宗教が目的とするところは宗教各々が定義した「幸福」を享受できるという手段を伝えることにある。
つまり、熱心な信者ほど、その教えや宗教活動の先に自らの幸福を見ている。やってることは困ってる人を助けたいという利他の発露なのだが、煎じ詰めれば自分がが多くの人を救って「やりたい」、自分が誰よりも先に真理を「知りたい」、そして何よりもそれらの活動を通じて自分が真っ先に「救われたい」となる。論理的に考えた帰結は、どう考えてもそうなる。
どうして特定の宗教でなければならないのか?どうして自分が信じている宗教でのみ人が救われるのか?の答えを、熱心な信者ほど持ってはいない。何故なら、信じることで救われたという覚醒を起源として、他の人に同じ思いをさせたいと思い、その結果、自分が救われたという覚醒状態を求めているのだ。
旧統一教会問題ではっきりしたのは、家族がどうなろうと、親族から反対されようと、自己満足で多額の献金をしてしまう思いの根源は、それほど複雑なものではなく、客観的に煎じ詰めてみれば、「自分が救われたい」という利己心から生まれている宗教行動なのだ。
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以降、
・③ 宗教団体の目的
続きはnoteにて(倉沢良弦の「ニュースの裏側」)。