① 宗教の大義名分
宗教の目的とするところは、いかなる宗教といえどはっきりしている。立派な人間を作り、より良い社会の実現を目指すことで、仏教系だろうと神道系だろうとキリスト教系だろうとイスラム教系だろうと変わらない。
ところが、教宣を拡充するには尖兵となって最前線で活動する人が必要になる。それがピラミッド構造になっている底辺にいる末端信者だ。上下関係が存在しない宗教団体は存在しない。表向き、如何なる理由を掲げようと、その構造的なものは何も違わない。つまり指導する側と指導される側がいて、目的達成に精進するべく、末端信者が活動を行う。
如何なる宗教といえど、活動の源泉となる精神は「利他」に立脚する。要は誰かのためになると本気で信じて、病気や不遇な家庭環境にある人、様々な悩みを抱えている人たちを探し出して、自分たちの教えを宣布する。そこには、純粋な「人の為に」という思いが発露となっていて、他人が文句をつける筋合いのものではない。
そして、誰かが不幸になる原因、誰かが誰かを救う行為の意味、「救われる」とはどういう意味か?などが各団体の教えによって懇切丁寧に説明されている。
単純に考えて、例えばお金に困ってる人がいれば、何とかしてお金を工面して手渡せばいいと思うし、病気で苦しんでいる人がいれば良い医者を紹介してやり、子供がグレてしまったら家族とその悩みを共有してやればいいと思うのだが、各団体ではそれを独自に解釈しもっともらしい理屈をつけて、問題には原因があると説く。
そして、具体的にはこうすればこうなると方法論を提示して、宗教行動に誘い込む。
② 信者の目的誰だって目の前にある困難に対して、原因を知りたいと思うし、出来るなら苦しまないで乗り越えたいと考えている。家族だろうと仕事だろうと学業だろうと、個性を持った赤の他人と関わる世界に生き、社会のルールに則っていれば、自分の考えと相いれなかったり、自分の思う通りにいかないことはあるだろう。それは苦しんでいる自分が特別な存在ではなく、誰もがそうなのだ。
つまり、「艱難辛苦」は普遍的な誰しもが経験することなのだ。それを何の苦労もなく乗り越える手段も理屈も、人類に開示した神様みたいな存在は誰一人存在していない。そんな教えや見えざる力があれば、世の中から差別や戦争が消え去っているはずだが、残念だが人類史上ただの一人もそんな人は存在しない。世界で最も多くの信者を有するイスラム教もキリスト教も人類で最初に悟りを得たと言われる仏教ですら、人類を救済してはいない。
こんなことは、少し考えれば誰でも容易に理解できるが、目の前の苦労に追われている人は、目の前の苦労から逃れる術を模索する。