【内閣の実績】

このころは国際情勢の動きが激しく、第2次オイル・ショック、米中国交樹立、イランのイスラム革命、米ソ第二次戦略兵器制限条約の締結といった出来事があった。

そうした中で、1979年6月に先進国首脳会議が初めて日本の東京で行われた。このような国際会議の運営経験のない日本にとっては、ひとつの試練だった。フランスのジスカールデスタン大統領が米英独首脳と秘密の事前会合を開いて石油各国別割り当て案をまとめて、日本はそれを挽回するのに大変苦労したりした。現在に比べて外務省の能力も低かった。

外交では福田前内閣の「全方位外交」に対して、「環太平洋協力」を打ち出した。つまり、福田がアジアに重点を置いたのに対して、大平はアメリカやオーストラリアもアジアとの関係構築に取り込んでいこうとした。それはのちにAPECや価値観外交に発展していく。

また、これは第二次内閣でのことだが、ソ連のアフガニスタン侵攻を理由に、カーター大統領が1980年のモスクワ五輪をボイコットしたときには、これに思い切りよく追随した。難しい判断だったが、最終的にはそうせざるを得ない問題なので、早期の決断が光った。中国に対しては、鄧小平の改革開放に積極的な助言を与え、またこれを後押しした。

キッシンジャーは、日本人があいまいに約束し、また、それも守らないことを批判しているが、大平については、相手の面子を潰すことなく日本の立場をきちんと説明したし、約束したら必ずそれ以上のことを実行してくれたと異例の高い評価をしている。

なお、福田内閣時代の1978年に訪日した鄧小平と当時、幹事長だった大平正芳は会談し、その際に、中国の経済運営について詳細なアドバイスをし、それに自信を得て、また、日本の専門家のアドバイスを得て鄧小平は改革開放政策を進めた。このために、大平は中国にとっての恩人であると評価されている。

【衆議院解散の理由】

このころ、各地で革新自治体が財政破綻する中で、野放図な財政運営に反省が生まれ、大平は一気に一般消費税とグリーンカード制の導入という正論をもって1979年10月の総選挙に臨んだ。だが、自民党は過半数割れし、党内反主流派との間に、いわゆる「四〇日党争」が繰り広げられた。自民党は事実上の分裂状態となり、反主流派は野党とともに首班指名選挙で福田赳夫に投票するが、決選投票で僅差ながら大平が勝って第二次内閣を組閣することになった。