村岡理論

村岡俊三は、マルクスの信用論の解明を生涯の仕事のひとつとした。彼も“先取り”を発見した。それは、銀行券が、将来出現する蓄蔵貨幣を“先取り”して出されたということである。“先取り”は信用貨幣の発行に際して生じる。つまり、廣田に比べると限定している。

評者である私は、この限定した先取りが商業手形の発行・商業信用の発行に際して生じていると理解している、その後、先取りしているのは、存在している商品が将来のある時点までに売れて貨幣になる、その将来の貨幣を現時点でだしてしまうことである。といっても貨幣はないのだから、それに代わる証書を出すのである。商業信用では、先取りされるのは“代金”である。商品は現にあり、先取りしたのは“売れる可能性”である。それを示せない商品では先取りも不可能だ。

銀行券の場合は、先取りするのは将来銀行に預金される蓄蔵貨幣である。遊休貨幣と呼んだ方がよい。銀行が、ある空間的な広さで預金者を把握していれば、その可能性は高い。逆に、それが狭ければ、預金者が少なければ、危うい。

歴史的には、銀行券は、その顧客・預金者に信頼がある場合に限り、しかも一定の限度額を持って発行された。そういう銀行券だけが受け取られ、流通した。そして大事なことは、一定期間後に預金は集まり、先取りはその時点で解消するのである。商業手形の場合も、一定期間後に販売され貨幣になり、その時点で先取りは終了するのである。

村岡や私が主張する信用論の世界の“先取り”は、先取りが成立する条件がかなり厳密に規定されている。しかも、期間限定でしか成立しない。先取りしても、それがやがて解消するからこそ、次の先取りが成立するのである。先取りの累積を防止するのが、兌換、であり、それを制度的に保証するのが金本位制度であった。

信用論での先取りが、資本の循環のスピードをあげるのは、これまでの説明で明らかである。商業手形を出せば、商品が売れるのを待たないでよい。銀行券を受け取れば、自分の手元に貨幣が蓄積するのを待たないでよい。待たないというのは速いのである。しかし、ここに危険がひそむのは廣田が指摘したとおりである。

ただ、廣田は先取り現象を資本の運動一般にまで拡大してしまうことで、この危険も拡大する。しかし、こうなると資本主義は成立したその時から危ういのである。廣田の先取りは“資本家の予想”と差がない。事業をする以上、予想はするのである。それは危機ではない、その予想が外れると、それはその資本家の危機であるが、すぐに資本主義の危機ではない。

廣田は先取りするのは虚の価値だという。やや意味不明だ。信用論では、商業信用では商品が現存し(発行者の手元に!)、銀行券では銀行の預金にはなっていなくても、顧客の誰かがそれを保有しているのである。どこにも虚はない。商業信用では、価値の存在形態が貨幣ではなく、商品なのである。

資本主義が、いいかげん、である、というのには賛成だが、それが厳密で正直なものとして発生してともいえる。ウェーバーの指摘した資本主義の精神は極めてまじめなものであった。この、まじめな体制に、どうやって、いい加減が、浸透してくるかは、興味深い課題である。

しかし、最近の事象にあまりに注目しすぎると、危機論は安易になってしまう。しっかりとした堅固な建物が崩れそうだからこそ“危機”なのであり、逆に一見、堅固だからある人々は建て直しの望みを捨てないのである。

共産主義革命のように、現在あるものを破壊するのでなく、使えるものは使うというのは、今日の巨大となった生産システムの前提にすれば当然であり、その方向で変革を考えるのには賛成である。

ただし、残すもののなかに株式会社も株式市場も入っていない。銀行はどうか、さらに貨幣は?廣田は切符性を考えているのかもしれない。そうなると、かなりしっかりとした統治機構が必要になるが、それは強い国家にならないか。やや心配である。

契約について

問題になるのは労働契約だろう。生産手段を所有する資本家と、それを持たず労働力を売るよりない労働者との間の契約が平等の外観のもとに結ばれる。労働者の実質不利を是正するためには歴史上、そして各国で様々な規制(労働保護)がつくられたが、ブラック企業は先進国に依然としてあり、中国の辺境・異民族が働く地域には奴隷工場も現実にある。

共存主義になったら、生産手段は“総有”になる?それなら生産のコントロールは誰がやるのか。みんなが選んだ、管理者なのか。経営の現場で必要とされる、時間をかけられない判断が、みんなの合議でできるのか。

廣田は、共存主義>資本主義で、前者は間口が広いといっている。次の社会を考えるとき、経済学だけで考えない、というのは賛成である。経済がすべてを決めるという、経済至上主義の時代は去った。

労働価値から存在価値へ、というのは、この間口の拡大の根本だが、こうなると経済学から距離が遠くなりすぎている。

労働はなくならない。その成果は貨幣になることも否定しない。しかし、それは人工的な貨幣(通貨・流通手段機能のみ)である。つまり蓄財はないから、信用も銀行もない。先取りの根源がないのだから、社会は“安定”するが、成長もないことになる。人口が減少していくのだから、これでもよいのかもしれないが、人口が底を打って再び上昇するとき、そして現代の低開発国ではどうするのだろう。

通貨に関する廣田の嘆きは理解できる。

ヒトはとうとう、こんなところまできてしまった。(P.113)

武田鉄矢の歌のセリフ、「思えば遠くに来たもんだ」が聞こえる。シュトレークの言うように、時間稼ぎをして、危機をごまかして回避して、だましだまし、ついにはMMTなる妖怪を生み出し、“出口なし”(サルトル)になり、仕方なく“長い空白”に突入した。

希望は言葉の発見から始まる。共存主義と経済という言葉に敬意を表する。