総有

共存主義は廣田の妄想ではない。経済社会の土台は所有構造である。唯物論や下部構造論にこだわらなくても、資本主義経済の土台が私的所有であることは、大方の是認するところである。

ならば、資本主義でなくなって“共存主義”になったら、所有構造はどう変るか。この問題へ廣田は果敢に挑戦する。

マルクスは、この問題(領有法則の展開と呼んだ)を『資本論』第一巻の事実上の最終章である第24章で展開した。例の、否定の否定である。資本主義の土台である、私的所有は、実は少数者による大きな所有であるが、それは小さく分かれていた個別の所有の否定によって、生み出された。そうであれば、資本主義でなくなるとき、私的所有が否定されなければならない。これが第二の否定、否定の否定である。

廣田はここで“総有”という言葉を示し、これこそ共存主義の土台にある所有形態であると主張する。

入会権

大いに評価されるべきは、“総有”は思い付きの言葉ではなく、廣田の弁護士という経験と、その経験への考察がつまっていることだろう。

現在では聞かなくなったが、入会権は多くの国に存在する権利である。廣田は日本のある地域の入会権に関する訴訟に関係し、“総有”の着想を得た。

マンションは区分所有である。マンション一棟はみんなのもの、つまり共有であるが、実は共有部分と個々に所有する居室部分に分かれる。総有とは、“個々に所有する”を否定した所有形態である。区分所有であれば、その部分は自由に売却できるが、総有ではそれはできない。入会地は、使用することはできるが、個人の意思で売ってしまうことはできない。

「総有」は共同所有の一種であるが、「狭義の共有」と異なって各構成員は持ち分を持たず、したがって持分分割請求はできない。(P.146)

共有(コモン)から総有を抜き出して概念化した廣田の功績は評価されるであろう。否定の否定の帰結が、なんであるのかの論争に対し自分の生み出した言葉で答えている。

総括:国家

廣田は法律家であるから、論理は経済の外にむかって、すなわち法体系、そして国家に向って展開する。本書の終わりの三章でそれが示される。

経済はいわばメンバーシップであり、その具体的存在形態にはバラエティーがある。ひとつの集団はある総有形態を持ち、他には違うそれがある。となると、集団同士が衝突することがあり、それをどう調整するか。ここを出発点に、廣田は国家から世界までかけ登る。

小冊子に、これは無理だから、ところどころに飛躍があるが、ここに廣田の意図もにじみ出ている。このまま、資本主義が進んでしまうことによる、混乱と人々の不幸を避けたい。だから、未来社会の見取り図だけでも早く示したいのである。廣田の年齢を考えれば、この思いは充分に伝わってくる。

論点

廣田の共存主義を受け止め、発展させるために、いくつかの論点を示そう。

所有形態については、一般財と生産手段について分けるべきだろう。廣田も、自分の住む家や身の周りに持ち物のたぐいの私的所有は残るし、残すべきと主張している。生産手段を総有した場合、そこで生産の効率を追求したら、生産性を求めたら、全会一致という決定方法が障害にならないか。

効率を追求しないというなら話は別だが、物財のありあまった先進国ならともかく、途上国では主張できない。廣田は経済成長という看板を降ろせと、何度も主張するが、この点は途上国については保留した方がよい。世には、脱成長論者が多いが、やや引きずられた感がある。

先取り論

資本主義は、シュトレークが認識したように循環運動である。そして、マルクスが第三巻で利潤を説明するときに主張するように、一循環毎にm’(剰余価値)は生まれるから、年率を考えると循環のスピードが重大な要素になる。資本はあるスピードに乗って運動し、gの生じる地点をめざす。gが生じることを事前に“予定”することを廣田の言う先取りだとすれば、スピードが早ければ先取りしやすくなる。一年先よりは一ケ月先、そして週明けというなら先取りの現実性は高まることになる。

経済学では“先取り”は明示的にテーマにならなかった。それはG-W-G’の範式の理解のうちに前提されていた。廣田は、暗黙の合意を取り出して明示したのである。だから、言われてみれば“そのとおり”なのである。

廣田は、資本主義の危機とはこの先取りがうまくいかなくなることだと主張する。要するに、将来のある時点で予定していたgが生まれない。個別企業でいえば、運動が失敗する。そうなれば次の循環が開始できないから、縮小してやらざるを得ない。

これは、資本主義全体を見れば、平均EPS(一株当たり利益)の縮小で、日本ならTOPICSの下落となり、それは典型的な不況現象である。しかし、ある企業が成功して、他の企業が失敗するというのは競争のある資本主義では当然であるから、廣田の危機が本格化するのは、全体として失敗が明らかとなり、それが傾向的になり容易に修復されないという状況である。

だから、資本主義の危機を主張するなら、利潤率の低下とか、現代風に言えばEPSの低下を証明しなければならない。そして、もはや政策的な支援をもってしても回復しないことを証明しなければならない。

廣田は、先取りを国・国債のレベルでも指摘する。将来の税収を先取りしているのだが、借金が多額に累積して、とても払いきれない事態になった現在の日本のような状態を、先取りの破綻、と表現している。MMTなる妖怪理論でごまかそうとしていると批判している。

しかし、廣田の先取り論は広すぎる分、厳密さに欠ける。経済学では暗黙前提されていたことを、先取りがうまくいかないという現実にあと押しされて批判しているだけだ。だから、ここで厳密な先取り論をみておく必要がある。