横須賀市の横須賀美術館で開催されている、開館15周年 PRIDE OF YOKOSUKA スカジャン展 に行ってきました。
そもそも、スカジャンって知っていますか? スタジャンではありません、スカジャンです。スタジャンは80年代から90年代に大学のサークルなどでお揃いのスタジャンを着るのが流行りましたが、スカジャンはシルクに手触りの似たアセテートの生地に龍や鷲、虎などの豪華な刺繍が施されたジャンパーで70年代に横須賀を発信地として当時の若者を中心に全国で流行りました。
このスカジャン、日本発祥の唯一の洋服ともいわれてますが、ビンテージ約140点を中心に現代のスカジャンが一堂に展示されているというので、興味津々の私は見に行ってきました。
目次
スカジャンの歴史
スカジャンのルーツは米兵のスーベニア(みやげ)だった
スカジャンの歴史

スカジャンの誕生は1940年代の戦後間もないころといわれています。
東京の銀座、GHQが接収した進駐軍専門デパートとなった「和光」周辺に露店が多く並んでいました。この露店には米軍将校たちが欲しがる土産として着物や帯が並べられていましたが、日本の伝統的な品々は彼らにとってまたとない記念品でした。
それに目を付けた日本人がいました。アメリカ人に親しみやすいベースボールジャケットを模したジャケットに露店の様子を見てヒントを得た彼は米軍将校たちの喜びそうな東洋的な刺繍を入れて販売を始めたのです。このジャケットが登場したころはスーベニアジャケット、スーベニアジャンパーと呼ばれていたそうです。
このスーベニアジャケットは、銀座の露店に持ち込まれるやたちまち完売してしまうほどの人気があったようで、これに目を付けたのが米軍基地内の売店であるPXでした。その後、正規ルートで日本各地の米軍基地に納品されるようになると、需要が増えすぎて刺繍の作業が追い付かなかったほどだったそうです。正規ルート以外にも全国の米軍基地周辺にスーベニアショップが立ち並びジャケットが販売されるようになりました。
横須賀においては、もともと「本町通り」と呼ばれていた「ドブ板通り」周辺に米兵向けに多くの土産物を扱う「スーベニヤ」と呼ばれる店が軒を連ねるようになりました。
スカジャンのルーツは米兵のスーベニア(みやげ)だった

アメリカは個人主義の国なんていわれますが、米軍兵たちはセーラー服の襟で隠れる部分や洋服の裏地に本人オリジナル意匠の刺繍をするのがステータスだったようです。そのほかに流行ったのが絹地に肖像画を描いたシルクポートレートとよばれるものがお土産の主流でした。自分や家族の肖像画や富士山などを描いたものを彼らは買い求めて本国へ帰っていきました。
今も昔も、彼らにとっては遥か極東の国の美しい景色や文化は心を打ったのでしょう。展示品は全てが日本人の私が見ても美しくて、どれもが日本を表わしていると思いました。
ドブ板通り

「本町通り商店街」ともともと呼ばれていましたが、ここに沿って流れていた小川に横須賀海軍工廟で調達した鉄板で蓋をして人や車が往来できるようになったことから「ドブ板通り」と呼ばれるようになりました。
スカジャン登場前の土産物
戦後、アメリカ海軍基地が置かれた横須賀では、ドブ板通り周辺に「スーベニヤ」と呼ばれる米兵を対象とした土産屋が多く立ち並び様々な土産物を販売していました。


肖像画

1940年代から50年代にかけてカラー写真は高価だったのでシルクポートレートと呼ばれる絹地に彩色を施し大きく描いたものが流行りました。自分の肖像や家族や恋人を描いてもらい本国に持ち帰ったそうです。絹地に絵を描くという珍しさが当時の米兵に受けたみたいです。スマホで簡単に写真が撮れる現在とは隔世の観がありますね。
刺繍とカスタム文化
米兵たちには以前から自分の持ち物や装備をカスタマイズする習慣があったそうですが、セーラー服の大きな襟に隠れる部分やカバンなどに刺繍や装飾を入れていたそうなんです。さすがアメリカ人、個人主義のお国柄ってところでしょうか。

大きな鷲の刺繍が裏側に施されています。でもそこが格好いいと思いませんか。彼らにとって唯一無二のオリジナルなんですよね。

カバンにも富士山が描かれています。アメリカ人にも富士山はインパクトがあったのでしょうね。名前や所属隊名や日付などが確認できます。私は恥ずかしくて持ち歩けませんが・・・(笑)
クッションカバー

戦後しばらく時間が経つと米兵の習慣やアメリカ本土の嗜好も伝わってきてクッションカバーなどが作られるようになりました。私は30年ほど昔、実際にサンフランシスコでアメリカ人の自宅にお邪魔した経験がありますが、確かにソファーに豪華な刺繍のクッションがありました。