ところで、「人権」の中には人間の衣食住に関連する基本的権利から、「言論の自由」、「結社の自由」、「信教の自由」など精神的活動領域に関する人権も含まれる。日本は法治国家であり、国民は一定の自由、人権を享受しているが、「信教の自由」では残念ながら後進性が目立つ。安倍晋三元首相の暗殺事件を契機に沸き上がった世界平和統一家庭連合(旧統一教会)バッシングはその典型的な例だろう。左派系メディアと共産党系弁護士たちが連携して、旧統一教会たたきを展開させているが、明らかに「信教の自由」を蹂躙している。高額献金問題とは無縁の大多数の信者たちの「信教の自由」を侵しているのだ。

残念なことだが、日本では旧統一教会問題が政争の道具に利用されている。旧統一教会バッシングをする政治家の中には、「信教の自由」を侵しているという自覚すらなく、左派メディアが吹聴する世論の流れに呼応し、あたかも正義の味方のように振舞って旧統一教会叩きに参列している政治家の姿を見る度に情けなくなる。

人権デーの「10日」は過ぎたが、特に、日本の為政者たちは「人権」の中でもその核の一つである「信教の自由」とは何かを考えるべきだろう。ローマ・カトリック教会では過去、聖職者による数万件の未成年者への性的虐待事件が起きているが、それゆえに、カトリック教会は解体すべきだという声はほとんど聞かれない。その背景には、聖職者の性犯罪は絶対に許されないが、「信教の自由」を無視することはできない、という規範があるからだ。性犯罪とは無縁で献身的に歩む大多数のカトリック教会聖職者と敬虔な信者たちの「信教の自由」を尊重しなければならないからだ。「信教の自由」を政争の道具や思想的な思惑で蹂躙してはならないのだ。

編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2022年12月11日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。