公明党の誕生と国政での立ち位置の推移

創価学会は、54年に政界進出を目的として文化部を創立し、55年の統一地方選挙において首都圏で合計53議席を得た。56年には国政に進出し、参議院議員で3議席を得ている。

61年に政治局、次いで政治団体としての「公明政治連盟」が設けられた。63年の東京都議選では17議席を獲得して第3党となっている。

64年の本部総会で、池田大作創価学会会長(当時)は宗教と政治は次元が異なるとし、学会の政治部は解散され、公明政治連盟は独立した政治団体として歩むべきであるとして、創価学会から切り離された。創価学会は、公明政治連盟の支持団体、推薦団体として自らを位置付けていくとした。学会としての「宗教と政治の分離」宣言である。

池田は「公明党」の結成を正式に提案し、公明政治連盟の全国代議員大会で、公明党の初代委員長に原島宏治が就いた。

政策は組織内部での検討に任されたが、池田会長からは党の外交政策の骨格として「中華人民共和国を正式承認し、日本は中国との国交回復に努めるべきである」との提案があり、それが反映された。結党大会に池田会長は出席しなかった。

新生公明党の力量を見せつけたのは、65年の「東京都議会黒い霧事件」での追及で、都議会を自主解散に追い込み、67年には衆議院・参議院両院で45議席を獲得した。この年に委員長に竹入義勝、書記長に矢野絢也が就任している。

試練となったのは69年の「言論出版妨害事件」。創価学会を批判する評論家・藤原弘達の著書『創価学会を斬る』の出版中止を、公明党が自民党幹事長・田中角栄に働きかけていたことが暴露され、池田が事件を謝罪し、これを機に公明党と創価学会は政教分離を徹底することになる。

この事件の余波で、世論の批判に応じる形で、社公民路線が採られたり、創価学会と日本共産党の間で創共協定が結ばれたりしたが、もともと無理があった。他方、72年に保守色が希薄な田中角栄政権の成立を経て、自民党政権との接近も図られた。

とくに、72年の日中国交回復に当たって、公明党は地ならしに大きな功績があったし、76年の総選挙で自民党が過半数を失ったことは接近を加速した。

また、自民党幹事長小沢一郎と公明党幹事長の市川雄一の間での協力が模索されていたが、小沢が自民党を離党したのち、93年に成立した細川護熙政権に公明党も参加し、4人の閣僚を送り込んだ。

さらに、新進党の発足に大部分の国会議員が参加した、地方組織の解消に至るまでに思惑の違いが露呈し、小沢一郎は自由党を結成するなどして新進党は瓦解してしまう。それによって、98年には公明党が再結成され、自公政権につながっていった。