生き方を考える
奈々さんが生まれ育ったのは兵庫県尼崎市。7人兄弟姉妹の4番目という大家族であり、裕福とは言えない家計ながら何とか地元の高校に進学した。
中学生までは保育士になりたい、という夢をもつほど子供が大好きだった奈々さんは、しかし高校生になって自分の進む道に迷いが生じる。このまま誰もが歩むような道程を経ていくであろう、そんな平凡な日常に納得できない。
高校2年になる頃にはアルバイトを掛け持ちして資金を貯めて、タイやカンボジアに数週間の渡航を何度か試みた。高校を中退した後、インドへの旅をきっかけに「自分にしかできないこと」は何だ、という命題を考え続けるようになる。
絵本作家として働いて資金を貯めては国内あちこちを旅して回る生活の中で、奈々さんの心を揺さぶったのは路上のアーティストたちだった。ミュージシャン、制作アートなど、同世代の若者が「自分にしかできないこと」を様々な形で表現している。
旅の中で、自分中心だった考えは次第に変化していく。他の誰かの役に立ちたい、自分に自信がない人を救いたい、家族に感謝の想いを伝えたい。自分が何を表現してどう伝えたいのかが見えてきた奈々さんは、絵本作家としての活動を始める。
17歳の奈々さんが絵本作家として最初に動いたのは、出版記念の会場を探すことだった。候補となる会場をいくつかあたっていく中で、大阪市茶屋町の画廊が半年後に一週間の空きがあることを確認できたところで会場を押さえてしまった。とはいえ資金はなく、そもそもまだ絵本も書けていない。
出版記念の日程が刻々と迫る中、これまで出会ってきた路上アーティストたちを模倣して、資金と賛同者を集めるために、絵本の企画とともに路上に立ち続ける。絵本400部を作成するための装丁や印刷代、画廊の設営や会場費など約80万円は路上で集められ、絵本は完成し、出版記念のイベントは無事に開催された。
奈々さんにとって名刺代わりともいえる絵本『ひらいてみてみ★』が、こうして世の中に出ていった。
ヒノワキッチン計画18歳にして絵本作家としてのキャリアを自力でスタートさせたかに見えた奈々さんだが、一気に突き進んだ一冊目の後、10代は表現したいことが上手く描けなくなる。
19歳で尼崎市の実家を出て、奈良市で自活しながら絵本を持って全国を旅するようになった。その中で訪れた島田市の穏やかな街並みにシンパシーを得た奈々さんは、島田市に移住して絵本と共に子ども食堂の開設を決める。今回も絵本出版の時と同様に、資金のあてはなかった。
子供が大好きという中学生の頃からの気持ちと、誰かの役に立ちたいという思いを両輪に、空き家が目立つ商店街の中に子ども食堂をつくりたいという思いを、今度は路上ではなく地元の住民や行政など様々な人に直接伝えて回っていく。
ビジョンを語っていく中で、開設のための資金はやはり金融機関からの融資を受けることなく、クラウドファンディングや寄付、補助金などで賄った。内装工事などはDIYなどで最小限に抑え、準備期間の賃料は大家さんの厚意で無料にしてもらうなど、賛同してくださる人たちの協力を得て、奈々さん23歳のクリスマスに、こども食堂『ヒノワキッチン』が開業する。