そこで、平安時代には、唐で流行していた天台宗や真言宗が、最澄(伝教大師)や空海(弘法大師)によって持ち帰えられて盛んになった。
最澄は最も大乗仏教的な経典である法華経の優位性を主張し、修行する人自身の成仏(仏の境地になること)から発展し「万人の成仏」が目指したが、死後の幸福を期待する浄土思想や、瞑想から真理へ近づく「禅」の考え方、「密教」的な思想も受け入れていく。
「密教」というのは、その教えが深遠で、その境地に達した者しか窺えないことを意味する。秘密の教義と儀礼を師資相承で伝持し、加持祈祷で現実を変えることができるとすることが、人気を博した。

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鎌倉新仏教は、釈迦入滅後1500年(西暦1052年だと信じられていた)を過ぎて「末法」の時代に入ったという意識の下、戦乱や飢饉のもたらす生き地獄から個人の精神を救済できるような宗教が求められていた。しかも、それは社寺の建立や寄進など費用がかかったり、難しい勉学を必要としたりする既存仏教とは違うものでなくてはならなかったのである。
浄土信仰は平安時代には、念仏を唱えることにより安らかに死を迎えられるというホスピスのような位置付けもあったが、末法の時代に入って信奉者が増えていく。法然は、さまざまな複雑な修行などしなくても、念仏さえ唱えれば凡夫でも極楽へ行けるという説を唱え、親鸞は「悪人」であっても救われるとしたのが目新しかった。
禅宗は宋の時代の新しい文化をまとめて採り入れる宗教として重宝される。臨済宗は禅問答の回答を見出すような知的な思考を重んじたが、曹洞宗では知的な学習はあまり問わないスパルタ的な修行や質素さ、土俗信仰、祈祷、そして葬式などを大事にした。
日蓮宗を興した日蓮は安房の生まれで、比叡山で学んだ。日蓮は、天台宗が法華経を究極の教典としながら、浄土・密教・禅なども重視することは素朴に考えておかしいと考えた。そこで鎌倉時代の時代的雰囲気を採り入れて、「南無妙法蓮華経」という題目を唱えることで現世において救われるとしたのである。
奈良仏教や平安仏教が兼学を認めていたのに対して、鎌倉仏教は兼学には否定的だが、とくに日蓮は「仏無間・禅天魔・真言亡国・律国賊」と、他宗を厳しく批判した。