A級戦犯として巣鴨プリズンに収監された元商工大臣岸信介は、「アメリカに対して戦争責任がある」とは思っていないが、「日本国民に対して、また日本国に対しては責任がある」とし、「開戦に当たって詔書に副署しているし、しかも戦争に敗れたという責任は自分たちにもある」と述べて潔い。

当初は「反米的というか、反マッカーサー的な気持ちが強かった」岸だが、「昭和21年頃、つまり第二次起訴」が「関心の的だった時期」に米ソ冷戦を知って、それが「巣鴨での我々の唯一の頼み」になった。「これが悪くなってくれれば、首を絞められずに済むだろうと思った」からだ。

こうして「アメリカに対する反発よりも・・ソ連に対する反発が強くなっていった」ところへ、シベリア抑留の帰還者から、自ら深く関わった満洲での「ソ連軍の暴虐」を聞いた岸は、「ソ連に対抗するには日本の力だけではどうにもならん、アメリカを利用してやって行く以外に方法はない」と思うに至る。

東条や広田らA級戦犯7人が処刑された48年12月24日に不起訴放免されたが、公職追放の身の岸は、52年4月のサ平和条約発効で追放を解かれ、翌年4月、吉田内閣の「バカヤロー解散」で自由党から出馬する。こうして衆議院議員となった岸は57歳になっていた。

ソ連への対抗に「アメリカを利用」する第一歩は、吉田がサ条約と同時に結んだ安保条約で記された。が、政界復帰した岸は「占領時代の弊害を一切払拭して、新しい日本を作る」べく安保条約と憲法の改正を目指す。まさに第一次安倍内閣が目指した「戦後レジームからの脱却」。

安保や憲法の改正路線の違いから54年に自由党を除名された岸は、鳩山一郎と結成した日本民主党と自由党との「保守合同」を主導する。その理由は、「保守同士」の両党は「政策に余り違いがない」ので選挙演説でも「個人攻撃ばかりになり」「政治の浄化の上からして良くない」からだ。

斯くて自由民主党が56年12月に結成された。その総裁選で石橋湛山に7票差で敗れた岸は、副総理格の外相として入閣するが、57年2月、病に倒れた石橋を継いで総理兼外相となり、安保改正を本格化させる。6月には首脳会談のため訪米、アイゼンハワーとのゴルフで親交を深めた。

岸は安保条約を「相互契約的」なものにしたかった。米軍が内乱鎮圧を支援する「内乱条項」がある一方、「日本を防衛する義務を負うという明確な規定がない」条約だった。岸はダレスに「米国が危険に遭っても日本軍が米国に出動できない憲法をあなた方が作った」と打った。

その訪米に先立って岸は、4月の衆院予算員会では九条を含めた憲法の全面改正に、5月の参院内閣委員会では自衛の範囲での核保有に、それぞれ言及した。攻撃的な核兵器は駄目だが、防衛的な意味での核兵器を持ってはいけないということが憲法にある訳ではないとの考えだった。