目次
余談(その1)
余談(その2)

余談(その1)

余談ですが、古代ローマが地中海世界の覇者になった時も、先進文化はギリシャ文化だったことはあまり知られていないかもしれません。ローマの貴族階級の家庭教師は大抵ギリシャ人奴隷であったし、貴族の子弟の留学先はギリシャのアテネでした。

世界3大美女の一人・エジプト女王のクレオパトラは、ローマ軍司令官であり恋人のアントニウスやカエサル(シーザー)とは何語で恋を語ったのか?と、考えたことはありませんか?

明らかに、国は違い、言語も違うはず。まさか、通訳を交えて、女を口説く男はいません。私はギリシャ語で会話していたと考えています。クレオパトラは、マケドニアから興って、ヘレニズム世界とわれる大版図を築いたアレキサンダー大王の部下のプトレマイオスがおこした王朝の末裔です。エジプト人ではなくて、ギリシャ人だったのです。ローマの貴族は、ギリシャ語で学問をしていたので、ギリシャ語とラテン語のバイリンガルでした。だから、アントニウスもカエサルも、当時の国際語であるギリシャ語を話すことに何の抵抗も無かったと考えるほうが自然ですね。

いつの世も恋をするには、言葉は大変大切であるということでしょうか??...

余談(その2)

もう一つ余談を、真面目な余談をしたいと思います。

紀元前27年、イタリア半島に誕生した小さな都市国家ローマは半島全域を勢力圏とし、やがて地中海全域を飲み込み巨大な国家「ローマ帝国」を形成しました。その後、国家は1200年続き、中でも「パクス・ロマーナ(ローマの平和)」と呼ばれる期間は200年にも及びます。しかし、皆様ご存知のごとく、都市国家の本家はギリシャです。

では、ギリシャの都市国家は巨大な覇権国家にはならず、なぜローマは覇権国家となったのでしょうか。一番大きな違いは、ギリシャの都市国家の閉鎖性と、ローマの開放性の違いです。都市国家の構成員は市民権を持った市民ですが、ギリシャのポリスはその市民権はそこに住む市民以外には与えなかった。ローマは周りの都市と戦争して勝利しても、そこの市民を奴隷に売り飛ばしたり、殺したりはしなかった。反対にその都市国家の自由民にはローマの市民権を与えて、ローマの共同体の一員としました。ローマ以外の市民には、納税の義務はありませんでしたが、ローマとは軍事同盟があり、ローマが戦争するときにはローマの軍団に兵士として従軍したわけです。

ローマはイタリア半島内の都市国家をローマの同盟都市としてその勢力を広げていきました。ローマはその同盟都市が攻撃された場合には、軍隊を派遣してその同盟都市と敵対する国との戦争をして防衛しました。キリストの弟子であるパオロは今の中東からローマに入ってキリスト教の布教をしていて、今のローマのサンピエトロ寺院がある土地で殉教しますが、彼はローマ市民権を持っていたので、ローマ帝国内を自由に旅行できたのでした。キリスト教が帝国内で勢力を拡大して、最終的にはローマの国教になったのも、ローマ市民権の恩恵といえ、宗教だけでなく、自由と民主主義政治の基礎となったと思われます。

文・写真・ドルチェビータ/提供元・たびこふれ

【関連記事】
避暑地アッター湖で、クリムトセンターと「クリムトの庭園」を訪ねる
ベルリン郊外に残るベルリンの壁跡地でハイキングやサイクリングを楽しむ
高速列車「あずま」で東海岸を行く、ロンドンーエディンバラ間鉄道の旅
【北海道】異国情緒溢れる街・小樽に行ったら、たくさんの笑顔に溢れていた。
ハワイ・ハレイワタウンでランチをするなら?食べたい内容別のおすすめ5店を紹介