2023年のNHK連続テレビ小説(朝ドラ)に、高知県出身の植物分類学者、牧野富太郎博士をモデルとした「らんまん」が決まりました!

しかし、「牧野富太郎」という名前自体、初めて聞いたという方もいらっしゃるかもしれません。牧野富太郎の人生は不遇と貧困の連続だったのですが、それでもなお植物学の研究に情熱を燃やし続けた結果、世界に誇る数々の偉業を残しています。

そんな牧野富太郎博士を深く知るのにうってつけの場所が、高知県立牧野植物園です。今回はこの植物園を楽しみながら、牧野博士の業績と波乱多き生涯もたどってみましょう。

目次
1. 牧野富太郎を知るなら「高知県立牧野植物園」へ
2. 命名した植物1,500種類以上! 牧野富太郎の生涯

1. 牧野富太郎を知るなら「高知県立牧野植物園」へ

2023年朝ドラ決定!天才植物学者、牧野富太郎を知るなら牧野植物園(高知)へ
(画像=『たびこふれ』より引用)

牧野富太郎博士をより深く知るために最適な場所と言えば、高知県立牧野植物園をおいてほかにありません。

1958(昭和33)年、高知市の自然豊かな五台山に、高知県立牧野植物園は開園されました。現在では約8haにも拡張された広大な園地は、周囲の自然環境に調和しながらゆったりと広がり、牧野博士ゆかりの植物など3,000種類以上もの植物を観察することができます。

保全・研究・教育普及・憩いの場という役割を兼ね備えた牧野植物園は、四国では唯一の総合植物園でもあります。

植物園に併設された牧野富太郎記念館は、サスティナビリティー(持続性)という、自然と人間との共生を1つのテーマとした建築が特徴です。来園者を包み込むような木の温もりにあふれていて、足を踏み入れただけでなぜかホッとします。

2. 命名した植物1,500種類以上! 牧野富太郎の生涯

牧野植物園を訪れる前に、牧野富太郎博士の生涯について少し触れておきましょう。

牧野富太郎博士(1862-1957)は自然豊かな高知県・佐川町の裕福な造り酒屋の一人息子として誕生しました。

幼いころに両親を亡くすという不運に見舞われながらも、祖母によって大切に育てられます。小さいころから植物を見るのが大好き。体はあまり強くなかったこともあり、植物は常に富太郎少年の大切な友達でした。

寺子屋や義校「名教館」を経て小学校に入ったものの、聡明な富太郎少年にとって学校の授業はまったく面白くなく、すぐに中退してしまいます。

やがて植物学を本格的に学ぶことを目指して上京し、22歳で東京大学理学部の植物学教室に出入りするようになりました。しかし正式な学生となったわけではなく、基本はすべて独学で植物学を学んでいきます。

2023年朝ドラ決定!天才植物学者、牧野富太郎を知るなら牧野植物園(高知)へ
(画像=<青年期の牧野富太郎博士/画像提供:高知県立牧野植物園>"『たびこふれ』より引用)

植物学の研究では、植物図は、記録や発表のために非常に重要なものでした。

富太郎はこの植物図にかけては天才的で、東京でこの能力をさらに磨き上げます。

2023年朝ドラ決定!天才植物学者、牧野富太郎を知るなら牧野植物園(高知)へ
(画像=<高知県立牧野植物園内で見られる、牧野富太郎博士が描いた植物図>"『たびこふれ』より引用)

植物の個体は1つとして同じものがありませんが、その種の平均的な全体像をとらえ、正確に描き伝えようと試みつづけました。

「忠実な眼、誠実な手」とも評される牧野富太郎の観察眼と描写力による植物図。この点が、他の植物学者と牧野富太郎を決定的に分けていると言えるほどです。

「雑草という名の草はない」とは、富太郎の残した有名な言葉ですが、実は明治に至るまで、新種の植物はすべて外国人学者が命名していました。明治22(1889)年になり、富太郎が高知で発見した新種の植物に「ヤマトグサ」という名前を付けましたが、これこそ、日本において、日本人が日本の植物に自ら学名をつけた、記念すべき第一号。

以降、富太郎によって名前を得た植物は、なんと1,500種類以上にも及んだのです。

2023年朝ドラ決定!天才植物学者、牧野富太郎を知るなら牧野植物園(高知)へ
(画像=<牧野富太郎によって命名された絶滅危惧種のビロードムラサキ。高知県以外で見ることはきわめて珍しい>"『たびこふれ』より引用)

東京で優秀な研究者との交流を深め、いっそう学問にのめり込む富太郎ですが、青年期から壮年期は、不遇な状況に陥ることも多々ありました。

富太郎の抜きん出た才能は、時に周囲との軋轢を生む原因ともなりがちで、突然、教授から大学への出入りを禁じられたこともありました。一方、それまで富太郎の研究の経済的な支えであった実家がとうとう破産するなど不運が相次ぎ、富太郎の研究は行き場を失いかけたことすらあります。

どんなに優秀でも、学歴を持たない富太郎は、なかなか大学助手以上の職に就くことができません。すでに妻子がいた牧野家は、食卓まで借金のカタに取られるほどの貧乏のどん底の生活が続きます。

しかしそんな中でも富太郎の学問への情熱が冷めることはなく、全国を回って植物を採集し続けました。

こうして日本中を自分の足で歩いて集め、また全国から集まった植物などの標本を合計すると、生涯で40万枚!

日本の植物学の発展に大きく寄与したことは言うまでもありません。

富太郎が重視したのは、机上の研究だけではありません。むしろ、学問を通じて一般の人々にも植物への愛情を伝えることこそ、自分の使命と感じていた富太郎は、呼ばれれば全国どこへでも講演会や観察会に出かけました。植物好きな人となら、相手が素人であれ子どもであれ、分け隔てはしません。いつも気さくに会話をかわし、植物愛好家たちのネットワーク作りにも尽力を惜しみませんでした。

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(画像=<フィールドワークに没頭する若き日の牧野博士/画像提供:高知県立牧野植物園>"『たびこふれ』より引用)

そんな富太郎の研究生活ですが、お金の苦労とは縁が切れません。いよいよ月給の1000倍(!)にもなる借金を抱えて、万事休す・・・になったことも。しかしそんなときに、いつも富太郎の周りには誰か支援してくれる人が現れます。

富太郎の才能を評価する資産家が現れ、借金をチャラにしてくれたこともあり、それは新聞に載るほどの騒ぎでした。

こうして度々ピンチに陥りながらも、常に情熱をもって植物と向き合う富太郎の姿勢が揺らぐことはなかったのです。

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(画像=<歳を重ねても、人々と野山を巡る姿勢は変わらず/画像提供:高知県立牧野植物園>"『たびこふれ』より引用)

50歳から77歳までは、小学校中退の学歴ながら、東京帝国大学で講師を務めます。その間に、65歳で(名誉に関心のない本人は拒否し続けた)理学博士号も授与されました。78歳で研究の集大成となる「牧野日本植物図鑑」を出版し、その後も全国をフィールドワークや講演で精力的に回りつづけました。晩年こそケガがもとで出歩くことは少なくなったものの、研究への想いを絶やさぬまま、94歳という長命を全うしています。

このように、はたから見れば、破天荒にも見える牧野富太郎博士の人生を一貫して支え続けたのは、博士が26歳の時に所帯を持った妻の壽衛(すえ)でした。

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(画像=<牧野富太郎・壽衛夫妻の肖像/画像提供:高知県立牧野植物園>"『たびこふれ』より引用)

壽衛夫人は、牧野博士が後年「若いころから、芝居も見たいといったこともなく、流行の帯一本欲しいと言わなかった」と振り返ったように、献身的に牧野博士を支えることにその生涯を費やしました。惜しいことに、壽衛夫人は54歳の若さで世を去ってしまいます。牧野博士は、新種の笹に「スエコザサ」と名付けて、夫人を偲びました。

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(画像=<牧野博士が夫人への感謝をこめて詠んだ句碑「家守りし妻の恵みやわが学び 世の中のあらん限りやすゑ子笹」>"『たびこふれ』より引用)

どんな厳しい環境にあっても、絶えず支援者が現れる牧野富太郎博士の生涯。

いくつになっても子どものように純粋に植物に向き合う姿には、思わず応援したくなるような魅力があふれていたのかもしれません。

2023年朝ドラ決定!天才植物学者、牧野富太郎を知るなら牧野植物園(高知)へ
(画像=<研究にいそしむ老年期の牧野博士/画像提供:高知県立牧野植物園>"『たびこふれ』より引用)

牧野植物園内の牧野富太郎記念館(展示館)では、牧野博士のこうした波乱の生涯がわかりやすく見ごたえのある展示で紹介されています。ぜひゆっくり時間を取って訪ねてみてください。