「石見銀山遺跡とその文化的景観」として、2007年に世界遺産に登録された島根県の石見銀山遺跡。

緑豊かな自然の中にかつて多くの銀を採掘した坑道跡が残り、江戸時代の古い町並みとともに、今も静かに時の流れを伝えています。この鉱山遺跡があるのは、島根県のちょうど中央付近にある大田(おおだ)市。出雲大社がある出雲市からも日帰り可能です。今回は、松江・出雲だけではない、島根のもうひとつの見どころをその歴史とともに紹介しましょう。

目次
石見銀山発展の歴史
石見銀山エリアを観光するには

石見銀山発展の歴史

石見銀山へ行こう!世界経済にも影響を与えた日本の世界遺産観光ガイド
(画像=<かつて銀を港へと運んでいた山道。今では歩く人はほとんどいない>、『たびこふれ』より引用)

今では坑道のすべてが廃坑になり静けさをたたえている石見銀山遺跡。しかし、戦国時代後期から江戸時代前期には日本最大の銀山として世界経済にも影響を及ぼしていました。16世紀末には、日本は世界の銀の1/3を産出していたからです。

15世紀末、ポルトガルとスペインはそれぞれインド航路と新大陸を発見し、ヨーロッパ人が直接アジアにやってくるようになります。人類の歴史が始まって以来、初めてアメリカ大陸を含めた地球規模の交易ネットワークが生まれたのです。

1543年に種子島に西洋人が初めて漂着し、鉄砲を伝えました。その頃、ポルトガルやスペインは中国の絹織物や陶磁器を買うために、大量の銀が必要でした。新大陸の銀だけでは足りないと、彼らが目をつけたのが日本の銀でした。当時の日本は戦国時代の真っ最中。戦国大名たちはみな鉄砲などの武器やその原料となる鉄、そして黒色火薬の原料となる硝石を欲しがりました。日本は鉄や硝石をポルトガルやスペインから購入。その代価として銀が支払われたのです。石見銀山は、周防(山口)の大内氏と出雲の尼子氏の奪い合いの場になりますが、最後に勝利したのは毛利氏でした。毛利氏が信長に対抗する大勢力になったのも、石見の銀の力が大きかったのです。

17世紀、江戸時代になると石見銀山は幕府の直轄地となります。最盛期には、そこから得られる富は100万石の領地と同じ価値があったとか。最盛期には数万人の人々が暮らし、町や村が生まれました。しかしやがて銀は枯渇していきます。江戸末期には地表に近い銀鉱は掘り尽くされていました。完全に閉山になったのは、第二次世界大戦中のことです。以降、銀山周辺は次第に過疎化していきます。2020年、石見銀山がある大森町の人口はたったの400人です。

石見銀山エリアを観光するには

石見銀山へ行こう!世界経済にも影響を与えた日本の世界遺産観光ガイド
(画像=<町並み保存地区となっている「大森地区」>、『たびこふれ』より引用)

石見銀山の観光エリアは、鉱山遺跡がある「銀山地区」と古い町並みが残る「大森地区」に大きく分かれます。道はほぼ川沿いの一本道なので迷うことはありません。手前の大森の町には、駐車場やレストラン、武家屋敷などがあります。古い町並みはおよそ1.5km。その先で道は2つに分岐します。細い川沿いにさらに進むと、銀山地区に。分岐を左折して2kmほどで、石見銀山世界遺産センターに出ます。分岐から銀山地区の一番奥にある龍源寺間歩までは2.3km。この間は一般車両の通行は禁止になっています。

観光所要時間ですが、大森地区を歩いて観光して施設にあまり入らないとしたら1時間、資料館や武家屋敷なども観光すると2時間程度。銀山地区は歩いて往復するだけで1時間かかるので、後述するレンタサイクルや運行している電動ゴルフカートを利用して回りましょう。ここも所要1.5〜2時間。石見銀山世界遺産センターは少し離れているので、行くなら車かバスで移動するといいでしょう。こちらの見学所要時間は40分程度。なので、全体で4~5時間を見ておくといいでしょう。