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徳川吉宗が整え、渋沢栄一が住んだ飛鳥山公園
西ヶ原のアトリエその後
徳川吉宗が整え、渋沢栄一が住んだ飛鳥山公園
そういう縁もあり、西望は1981年北区の最初の名誉市民に選ばれています。また、冒頭の平和祈念像以外にも、王子周辺では、西望の作品を二点鑑賞することができます。ひとつは、北区役所前に1982年白寿を迎える西望の言葉とともに建立された『天女の笛』。

もう一点は、王子駅に隣接する飛鳥山公園内に1974年建立された『平和の女神像』です。

余談ながら、飛鳥山公園は、明治6年(1873年)に定められた日本最初の公園のひとつです。縄文時代弥生時代から人が住んでいた丘陵地帯ですが、江戸時代の中ごろ、八代将軍吉宗が桜や松、楓などを植えてにぎわうようになりました。今でも春は桜、秋は紅葉の名所として知られます。

また、この飛鳥山公園の南側には、日本の近代経済の基礎を築いた渋沢栄一の邸宅がありました。空襲により多くの建物は焼失しましたが、大正時代に建てられた「晩香廬(ばんこうろ)」と「青淵文庫(せいえんぶんこ)」が、「旧渋沢庭園」内に残っています。このふたつの建物は2005年、重要文化財の指定も受けています。(※旧渋沢庭園は2021年2月中旬まで工事のため一時的に閉鎖中)

これまた余談ですが、渋沢栄一は2024年から新一万円札の顔となることが決まっており、2021年の大河ドラマ『青天を衝け』の主人公でもあります。これらの注目を受け、飛鳥山公園には、2020年11月19日渋沢史料館が誕生しましたし、2021年2月20日には大河ドラマ館も同公園内に誕生する予定となっています。このあたりについてはまた稿を改めてご紹介できればと思います。
西ヶ原のアトリエその後

さて、話を元に戻しましょう。上述のように北村西望は1953年に井の頭自然文化園へ転居していきましたが、西ヶ原のアトリエは、その後も、西望の長男であり彫刻家である北村治禧(はるよし)が創作を続ける場として機能し続けました。治禧氏もまた彫塑家として大成し、1995年には父と同じように北区名誉区民に選ばれています。力強さが前面に出たものが多い西望の作風とは異なり、北村治禧はむしろ詩情豊かな作品を残しています。

1992年には、JR板橋駅東口の広場に『麗新』が建立されました。たおやかな中にも清涼感を感じる作品です。妖精シリーズが氏の作品としては有名ですが、中でも『妖精I』は内田康夫の小説『北の街物語』に重要なカギを握る像として出てくることで知られます。この『妖精I』は、西ヶ原のアトリエ、上の写真にある長屋門の奥に置かれています。西望・治禧親子が制作に励んだアトリエのその後ですが、治禧氏死去の翌年2002年に、遺族から作品約280点とともに北区に寄贈されました。これは、故人の「若手彫刻家の育成と彫刻芸術の普及を願う」という遺志を受けての寄贈だったそうです。
現在「彫刻アトリエ館(仮称)」と呼ばれ親しまれるこのアトリエは、初心者からプロまで対象にした彫塑教室の場として用いられています。普段は非公開ですが、2004年からは公益財団法人北区文化振興財団により毎年9月終わりから10月にかけて一週間だけ希望者への公開もされています(要事前申し込み)。その折には、北区に寄贈された北村両氏の彫刻作品も展示されます。普段しまいこまれているのが惜しい作品の数々に圧倒されること請け合いです。ちなみに同財団は、1989年から毎年5月、彫刻の展覧会、北彫展も主催しています。北村西望が西ヶ原に住んだ縁がこんな風に続いていると思うと、なおのこと趣深く感じます。