古代歴史にはまだまだ謎が多く、毎日新しい発見があると言っても過言ではないようです。

その中でも、天智天皇と中臣一族の関係や、聖徳太子や渡来人の影響などはロマンが尽きません。天智天皇と中臣鎌足といえば『大化の改新』。『大化の改新』とは、大化元年(645)から翌年にかけて中大兄皇子(のち天智天皇)と中臣鎌足が中心となって行った、蘇我氏を代表とする豪族打倒に始まる一連の政治改革のことを指します。その天智天皇の御陵が、京都山科の「旧東海道沿い」にあります。近辺には中臣一族の遺跡や、小野や日野の一族が住んでいた場所、花山天皇ゆかりの場所などがあり、一帯が歴史ロマンに満ち溢れていることをご存知でしょうか?

今回は、そんな『京の歴史ロマン』を、歌と一緒にご紹介したく思います。

目次
天智天皇 山科陵
中臣遺跡
花山稲荷と元慶寺
小野一族と聖徳太子
日野そして山科へ

天智天皇 山科陵

昨今、天皇の御陵をめぐるのが静かなブームとなっているようです。そんな中でもこの「天智天皇 山科陵」は京都で一番古いものとされ、特に人気があります。

第38代天皇である天智天皇の御陵は、考古学的には「御廟野古墳」といいます。上円下方墳で上円部は、截頭八角錐(せっとうはっかくすい)という形です。この古墳は、天皇陵としては珍しく実際に立ち入り調査を行い、確実に天智天皇陵であるという証明がされています。聖徳太子の死後に大和朝廷で力を持った「蘇我氏」を中心とした豪族の政治に中臣鎌足と共に終止符を打った「大化の改新」。その立役者である「中大兄皇子」の後の名が「天智天皇」です。教科書にも出てきますね。671年12月3日大津宮で崩御され、「壬申の乱」の後699年に山陵修営官が任命されました。

天智天皇は歌人とも知られ、『小倉百人一首』の第一首が、天智天皇の歌です。

「秋の田の仮庵の庵の苫をあらみ わが衣手は露に濡れつつ」

『万葉集』には額田王が天智天皇が亡くなったときに詠まれた歌が掲載されています。

「やすみしし わご大君の かしこきや 御陵仕ふる 山科の 鏡の山に 夜はも 夜のことごと 昼はも 日のことごと 哭のみを 泣きつつ在りてや 百磯城(ももしき)の 大宮人は去き別れなむ」

そんな天智天皇が眠る山科陵では、近隣に住む人の憩いの場として散歩道になっています。

旧東海道沿いにあり、三条通に面した深い森の中を通り過ぎると参道入り口が見えてきます。高貴な人が眠る参道らしい緑葉の中を歩くと、ところどころ光が差してきて、鳥や虫の鳴き声が聞こえます。管理事務所の横にある手水所で手を洗い清め天智天皇の御陵に手を合わせると、森に囲まれた白沙の中に御陵が見え、なんとも神聖な気分になります。

【京都】山科に宿る歴史ロマンをめぐる
(画像=『たびこふれ』より 引用)

<天智天皇陵参道>

【京都】山科に宿る歴史ロマンをめぐる
(画像=『たびこふれ』より 引用)

<天智天皇陵>

天智天皇は日本で初めて時計を設置した人でもあります。

漏刻(ろうこく)という水時計を設置して、時刻に合わせ鐘や太鼓をならし時間を知らせる報時制度を導入し、漏刻を設置した日である6月10日を「時の記念日」として制定されました。そのこともあり、昭和13年には御陵入り口に「日時計」が設置されました。天智天皇を御祭神として祀る『近江神宮』では、実際に水時計を見ることができます。

【京都】山科に宿る歴史ロマンをめぐる
(画像=『たびこふれ』より 引用)

<天智天皇陵 日時計>

天智天皇陵の横の細道を行くと、琵琶湖疏水に通じます。

地元の人にとっては散歩道としてだけでなく、四季折々の草花が見られたり、野鳥や猿、猪だけでなく由緒正しき寺社仏閣があり、歴史を深く感じることができる大切な場所です。

琵琶湖疏水周辺については以下の記事をご覧ください。

天智天皇 山科陵

所在地:京都府京都市山科区御陵上御廟野町
電話: 075-541-2331
アクセス:地下鉄東西線御陵駅から徒歩2分で参道入口、徒歩10分で御陵

中臣遺跡

中臣一族は、天児屋命(アメノコヤネ)を祖とし、忌部氏とともに神事や祭祀をつかさどった中央豪族として知られます。現在の京都市山科区中臣町付近の山階を拠点としており、この地域には古代からの中臣遺跡があちこちにみられます。

物部氏や天智天皇とともに「蘇我氏」と対立し、645年「大化の改新」で活躍した中臣鎌足。669年の臨終の際に、『藤原』という姓が与えられ以後、子孫は『藤原』を名乗ることになりました。

飛鳥時代(推古天皇22年)に生まれた鎌足。『多武峯縁起絵巻』には、鎌足が生まれたときにどこからか鎌をくわえた白い狐が現れ、生まれた子の足元に置いたため、その子を「鎌子」と名づけたと描かれています。そのため、死後、藤原鎌足が祀られている談山神社(奈良)では鎌を咥えた白キツネのお守りを授かることができます。

当時から交通の要衝とされていた山科には「陶原の館(すえはらのやかた)」を建て、山階精舎(やましなのしょうじゃ)と呼ばれるお堂が作られました。釈迦像が安置され「山階寺」と呼ばれるようになりましたが、ここが後に移転して『興福寺』(奈良)となりました。その石碑が、京都薬大の一角にあります。

【京都】山科に宿る歴史ロマンをめぐる
(画像=『たびこふれ』より 引用)

<中臣 山階寺跡>

また、山科川と旧安祥寺川が交わる場所から北方、栗栖野丘陵一帯の真ん中を新十条通が横断している地域の発掘調査も続けられています。このエリアには、稲荷神、中臣氏祖天児屋根命(あめのこやねのみこと)を祀る『中臣神社(二之宮)』がある中臣公園があります。

【京都】山科に宿る歴史ロマンをめぐる
(画像=『たびこふれ』より 引用)

<中臣神社 中臣遺跡公園>

『中臣遺跡公園』では、旧石器時代の遺物や竪穴式住居跡が発掘されました。

【京都】山科に宿る歴史ロマンをめぐる
(画像=『たびこふれ』より 引用)

<列子墓 中臣遺跡>

【京都】山科に宿る歴史ロマンをめぐる
(画像=『たびこふれ』より 引用)

<中臣遺跡 かまど遺跡>

京都市立勧修小学校の敷地内には、「中臣遺跡」と書かれた石碑が建っており、その横には征夷大将軍だった「坂上田村麻呂」の墓があります。

【京都】山科に宿る歴史ロマンをめぐる
(画像=『たびこふれ』より 引用)

<中臣遺跡 石碑>

【京都】山科に宿る歴史ロマンをめぐる
(画像=『たびこふれ』より 引用)

<坂上田村麻呂の墓>

田村麻呂が亡くなったのを悲しんだ嵯峨天皇は、遺骸に甲冑を着せ、弓矢などを持たせて武装し立った姿で葬ったと言われています。死してなお、平安京を守ってくれているようです。

『中臣十三塚古墳群』では、「折上神社」境内の「稲荷塚古墳」(円墳)と、「田村の森」西方にある「宮道古墳」(円墳)の2つ、そして田村麻呂の墓や花山稲荷の円墳も挙げられています。宮道古墳の前には、勧修寺流藤原氏の祖・高藤(900年没)の妻で、醍醐天皇の生母胤子(たねこ)を生んだ列子の墓も見られます。「折上神社」は「伏見稲荷大社奥宮」「栗栖野稲荷」としても知られ、境内には「稲荷塚古墳」があります。

【京都】山科に宿る歴史ロマンをめぐる
(画像=『たびこふれ』より 引用)

<折上神社 古墳>

「折上神社」に触れた記事もありますので、よかったらこちらの記事(後半)をご参照ください。

中臣遺跡公園

所在地:京都府京都市山科区勧修寺東栗栖野町35-6