「世の中に 山てふ山は多かれど 山とは比叡の御山をぞいふ」

この歌は鎌倉初期に活躍した延暦寺の僧侶、慈円(じえん)が読んだもので、「数ある山の中でも比叡山こそが日本一である」ということを意味しています。

比叡山は京都府と滋賀県の県境で南北に連なり、その山内には日本仏教の母山ともいわれる天台宗の総本山、「比叡山延暦寺(ひえいざんえんりゃくじ)」があります。

788年に伝教大師 最澄(でんぎょうだいし さいちょう)が開いたこのお寺は1200年の歴史を誇り、1994年(平成6年)にはユネスコ世界文化遺産にも登録され、世界的にも評価されています。

日本人なら誰もがその名を知る延暦寺ですが、一体どんなお寺なのでしょうか。なぜこれほどまでに評価され、人気を集め続けるのか、比叡山延暦寺の奥深い魅力をわかりやすく、かつ詳細にご紹介します。

目次
1. 比叡山延暦寺の概要
2. 最澄と比叡山延暦寺の歴史

1. 比叡山延暦寺の概要

比叡山延暦寺の完全ガイド! 滋賀の人気観光地の歴史・回り方・アクセス方法を紹介
(画像=『たびこふれ』より引用)

比叡山延暦寺にまだ行ったことがない方は、「比叡山という山に延暦寺という大きな一棟のお寺が存在している」と想像されるかもしれませんが、延暦寺は東側の東塔(とうどう)、西側の西塔(さいとう)、北側の横川(よかわ)と呼ばれる3つのエリアに点在しており、その全域を総称して延暦寺と呼ばれています。長年にわたり少しずつ拡大を続け、天台宗の総本山として現在のような巨大な姿に至りました。

とても広い敷地のため、全エリアをじっくり参拝するには丸一日あっても足りないほどです。

2. 最澄と比叡山延暦寺の歴史

延暦寺の見どころを説明する前に、まずは最澄と延暦寺の歴史を解説していきます。

2.1 奈良時代に滋賀県で生まれた最澄

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(画像=『たびこふれ』より引用)

最澄は滋賀県の坂本にある生源寺(しょうげんじ)付近で、奈良時代末期の766年に誕生したと言われています。近江国の「国分寺」というお寺で行表(ぎょうひょう)の弟子になり、14歳で「得度(とくど)」という出家の儀式を行いました。法名の「最澄」は読んで字のごとく、「最も澄むもの」を意味しています。

行表がある時言った、「心を一乗に帰すべし(生きとし生けるものは皆必ず仏になることができる)」という教えが、最澄の一生に大いなる影響を与えたと言われています。

2.2 20歳ですごすぎる願文を書き上げた最澄

記憶力がとても優れていた最澄は、お経をすぐに暗記してしまうほど優秀でした。一人前の僧侶となるための具足戒(ぐそくかい)と呼ばれる規律を奈良の東大寺で授かりましたが、その後わずか3ヶ月ほどで比叡山に入り、人里離れた場所で修行することを決意したのです。

最澄は「なぜ山に入るのか、仏教とは何か、そして人生をどう生きていくか」というような内容を、「願文(がんもん)」と呼ばれるものに書き留めました。仏教の教えについてまとまった見解がなかった当時に、20歳ほどの若さで教えを書き上げてしまった最澄。その願文はまたたく間に広まり、最澄の存在が少しずつ、世に知れ渡るようになりました。

2.3 最澄が一乗止観院を建てそれが比叡山延暦寺となる

平安時代初期の延暦7年(788年)、比叡山での修行に入った最澄は「一乗止観院(いちじょうしかんいん)」という名の草庵(小さな小屋のようなもの)を建てます。「いまの世の中をもっと良くしていきたい」という思いを込め、一乗止観院の中に、最澄自らが彫った薬師如来を祀りました。

それが後に国宝となる「根本中堂(こんぽんちゅうどう)」です。

このように、現在の立派な比叡山延暦寺は人里離れた小さな小屋から始まったのです。

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(画像=『たびこふれ』より引用)

「明(あき)らけく 後(のち)の仏の御世(みよ)までも 光つたえよ 法(のり)のともしび」

「この仏法のともしびを多くの人によって受け継ぎ、守り続けていかなければいけない」

「この世の中をよくしていくためには、努力し続けることが大切である」

比叡山延暦寺の完全ガイド! 滋賀の人気観光地の歴史・回り方・アクセス方法を紹介
(画像=『たびこふれ』より引用)

そんな思いを込めて、菜種油で一つの明かりを灯し、この歌を詠みました。消さないように努力しないと消えてしまうこの明かりは、「不滅の法灯」として延暦寺における覚悟の象徴となっているそうです。

2.4 比叡山延暦寺焼き討ちそして再建

延暦寺は1571年に、織田信長の「比叡山焼き討ち」によって全焼してしまいます。その際にこの灯りも一度消えてしまったと思われたのですが、幸い山形県の立石寺に分灯されていたため、最澄が灯した日から一度も消えることなく、今も守られ続けています。

現在の建物は信長の死後、豊臣秀吉や徳川家康らによって再建されました。

2.5 遣唐使として最澄は中国へ

その頃、国家宗教であり庶民に一番多く親しまれていたのが「奈良仏教」でしたが、桓武天皇(かんむてんのう)は奈良仏教よりも、最澄が全身全霊をかけて取り組んでいた「天台宗」という、新しい宗派を取り入れていきたいと考えていました。

最澄は桓武天皇の力を借りて「遣唐使」として中国に渡り、天台宗を中心に密教(みっきょう)なども学びました。航海技術が発達しておらず、中国にたどり着くかどうかもわからない当時の状況を考えると、最澄は世のため人のため、命がけで仏教を学んでいたと言えます。

帰国後は日本各地で天台宗の講演を行いましたが、最澄の教えを批判する者が多く、天台宗という新たな教えを人々に理解してもらうにはかなり厳しい状況でありました。

最澄が目指した教えはこれまで親しまれてきた教えとの間に相違があったため、比叡山で新たに僧侶養成を計画します。正式な僧侶として認められるために受戒する場所を「戒壇(かいだん)」と呼びますが、奈良の東大寺を中心に三箇所にしかなかったこの戒壇を、比叡山にも設けたいと考えました。

しかし、周囲の反発が収まることはなく、戒壇設立の想いも届かないまま、最澄は822年6月26日に亡くなりました。亡くなる直前、最澄は弟子たちに「自分のために仏は作らなくてもいい。ただこの志を世に伝えていってほしい」と語りました。

最澄の志を受け止めた弟子たちが、最澄の意思を懸命に朝廷に訴え、ついに延暦寺での戒壇設立の許可がおります。最澄が亡くなり、わずか7日後のことでした。最澄のこの懸命な努力が、後世における日本の仏教に大きな影響を与えていったのでした。

2.6 比叡山延暦寺の住職たちがそれぞれの宗派を開宗

「天台座主(てんだいざす)」と呼ばれる比叡山延暦寺の住職は、現在の住職で第257代目となります。最澄が亡くなった後に初代住職となった「義真(ぎしん)」から始まり、これまで一度も途絶えたことがありません。そんな歴代天台座主の中には、以下のように各宗派の開祖たちが数多くいます。

  • 法然(ほうねん)→ 浄土宗
  • 親鸞(しんらん)→ 浄土真宗、法然の弟子
  • 良忍(りょうにん)→ 融通念仏宗 
  • 真盛(しんせい)→ 天台宗真盛派
  • 栄西(えいさい)→ 臨済宗、建仁寺の開山
  • 道元(どうげん)→ 曹洞宗、永平寺の開山
  • 日蓮(にちれん)→ 日蓮宗

比叡山延暦寺で天台宗の元修行をしたのちに、開祖として各宗派を全国に広めていきました。「一人前の僧侶を養成したい」という最澄の想いが、多くの人々に伝わり日本の仏教を動かしていったのです。