ニクソン=キッシンジャーの陰謀
実は、後日非公式に得た情報によると、米国政府(当時大統領はニクソン、国務長官はキッシンジャー)は、ベトナム戦争の枯葉作戦などで傷ついたアメリカの国際的イメージを払拭するとともに、若者たちの反戦運動の矛先を転換させる手段として捕鯨問題を利用し、日本など捕鯨国を「悪者」に仕立て上げようと目論んだ作戦だったということです。いかにも稀代の策士、ニクソンとキッシンジャーが考えそうなことだという気がします。
しかし、これは単なる陰謀論ではないと思います。事実、このころ、ニクソン=キッシンジャーの主導で北ベトナムとの停戦交渉が秘かに進んでおり、ストックホルム会議の翌年(73年)、パリ和平協定が調印されました。こうしてベトナム戦争が下火になるにつれて、若者たちの関心も反戦運動から、新しい運動目標としての環境問題へ移っていったと見ることができます。
そうした時代の大きな流れに私たち日本人は鈍感だった、と言うべきかもしれません。これは、ベトナム戦争を自ら体験し、続いて環境問題にいち早く取り組んだ外交官としての自省の弁であると同時に、今後の日本の環境外交への教訓でもあると思います。
国連環境機関の創設に参画
さて、話を前に戻しますと、こうして2週間にわたって開かれたストックホルム会議では、あたかも「パンドラの箱」をひっくり返したように、国際社会が直面するさまざまな問題にスポットライトを当て、解決の糸口を見つけ出そうと試行錯誤を繰り返し、激論を展開しました。
当時は、環境問題はもっぱら先進工業国の関心事で、開発途上国にとっては環境保護より経済開発が優先事項という雰囲気でした。例えば、インドのインディラ・ガンジー首相は、総会での演説で「我々にとっては経済開発を進めて、国民の生活水準を引き上げることが急務であり、先進国のように煙突から煙を出すような工場をたくさん建設したいものだ。途上国の環境政策を言うなら先進国はまず財政支援を倍増すべきだ」と熱弁を振るったことが象徴的でした。
日本(首席代表は大石武一初代環境庁長官)は、そうした途上国支援のために「国連環境基金」の創設を提案し、率先して、目標額の10%を拠出すると約束し、注目されました。
さらに、世界的な環境保護政策を立案し実施するための新しい国連機関を創設すべきだという提案が日本やカナダなどから提案され、採択されました。日本は新国連環境機関(仮称WEO)を招致したいと名乗り出ましたが、結局、新機関はアフリカに設置すべきだということで、ケニアのナイロビに設置が決まりました(私は、大阪の万博跡地に招致したいと考え、色々画策しましたが、既存の国連専門機関が先進国に集中しているから、新機関はぜひ途上国にという意見に押し切られました)。
さて、こうして新しい国連機関として、「国連環境計画」(UNEP)が創設されることとなり、私は自作自演というか、「ミイラ取りがミイラになる」というような形で、自ら、日本政府派遣職員第1号として出向することになりました。
新機関の本部は当初スイス・ジュネーブの国連欧州事務局(パレ・デ・ナシオン)でスタートしたので、私は新婚の妻とともに赴任。1年半後ナイロビに移り、快適な自然環境の中で生活をエンジョイしたあと、さらにタイのバンコクに移動し、初代のアジア地域代表に就任。77年まで通算4年半の国連勤務を経験しました(これらの地での思い出はいずれ後日ゆっくりお話ししましょう)。