「会津武家屋敷」は、福島県会津若松市東山町にある、観光と食事の名所です。会津若松市街地から歴史ある温泉地・会津東山温泉へと向かうと、温泉街へと続く坂道の手前にあります。敷地内には会津藩23万石の家老であった西郷頼母邸を移築し復元した施設をはじめ、福島県の重要文化財を含む歴史的建造物、資料館に美術館もある、"歴史テーマパーク"なのです。(参考 会津武家屋敷施設案内)
会津武家屋敷の総敷地面積は、約7,000坪。広大な敷地をのんびりと観覧すれば、幕末の会津の生活や歴史に触れることができます。敷地内の各施設には「音声こんしぇるじゅ」なる無料音声ガイドが設置されていて、スマートフォンでQRコードを読み取ると、音声で案内を聞くことができます。
目次
1. 会津武家屋敷一番の見どころ「家老屋敷エリア」
2. 会津武家屋敷の見どころ2:藩米精米所
1. 会津武家屋敷一番の見どころ「家老屋敷エリア」

家老屋敷は会津藩家老・西郷頼母邸を復元したもの。けやき、ひのき、杉材などをふんだんに利用し、江戸時代中期・和様建築の粋を集めた豪華かつ壮大な建築物です。敷地面積2,400坪、建築面積は280坪。38室の部屋があり、畳の数は328枚もあるのだそう。

各部屋には武具や調度品などが展示されています。冬季は建物が雪に覆われてしまうため、室内に入って見学することができます。

表門をくぐり、表玄関へ。当時は上級武士だけが通ることを許された、特別な玄関です。家老屋敷内には人形が置かれていて、江戸時代当時の生活ぶりを垣間見ることができます。

西郷頼母の家老屋敷は、その役割によって大きく4つの部分に分かれています。「お成り御殿」の一角は「接待所」エリアで、藩主をはじめ重役など身分の高いお客様しか入ることができませんでした。接待所エリアに続くのが、西郷家家臣が執務や警備に使用する使者の間や番所、役人所などがあるエリア。そして家族の生活エリア、女中部屋や台所などの女中や使用人たちの仕事場エリアに分かれています。(参考 会津武家屋敷施設案内)

家老屋敷の「お成りの間」は「御成り御殿」とも呼ばれ、お殿様や上級武士など身分の高い方が来た時だけ使用された特別なお部屋です。

御成り御殿は書院壱の間、次の間、茶の間、鎖の間などから構成される書院室になっています。書院壱の間には、奥に松平容保公が、手前には西郷頼母の人形が控えています。(参考 会津武家屋敷施設案内)

家老屋敷にある「雲隠(くもがくれ)」はお殿様専用の厠(かわや)、すなわち、現代のトイレです。

中は畳敷きになっていて、床下に砂を敷いた箱車が置かれ、使用するたびに処理をしていたのだそう。

「風呂場」は家族が使用した檜造りのお風呂。火災を予防するため、邸内で火を使えるのは台所のみだったのだとか。そのため、かまどで湯を沸かしながら入浴するのではなく、裏手の台所で沸かしたお湯を手桶で運んで入浴したというから驚きます。

白壁・土蔵造りの建物は、かつては家財道具や武器を保管する蔵として使われていました。現在は会津歴史資料館になっており、2018年は戊辰150年記念特別展が開催されるなど、毎年変わるテーマに沿った資料が展示されています。

「台所」は家老屋敷の中に入れる貴重なスペース。雪に耐えられる太い柱や桁を見ることができるのは、雪国ならではです。現在は売店になっていますので、ここでちょっとしたお土産を買うのもよいでしょう。

表の門の片方にあったことから「片長屋」と呼ばれたエリアは、第二資料館になっています。
『西郷頼母は戊辰戦争の際、恭順論や藩主の京都守護職辞退を進言しました。西軍の侵攻を受けた慶応4年8月23日、西郷頼母が登城し留守だった邸宅内で、西郷頼母の妻・千恵子を筆頭に、西郷家一家郎党21人が自刃をするに至りました。
第二資料館内には、弾雨を避け邸内に入った西軍藩士・中島信行が、死にきれず息も絶え絶えの少女から介錯(かいしゃく)*を求められ、涙ながらにこれに応じた悲話を人形で再現しています』。(参考 会津武家屋敷施設案内)
第二資料館には他にも、西郷家ゆかりの資料が展示されています。
*介錯とは - 切腹する人のそばに付き添っていて、その人が刀を腹に突き刺すと同時に、その首を斬って死を助けてやること。また、その人。(goo辞書より)
次に家老屋敷エリアのおすすめのフォトスポットを紹介します。
ひとつは、家老屋敷前の中庭・日本庭園から御成御殿方向を見る構図。

もう一つは会津若松ならではのなまこ壁です。

2. 会津武家屋敷の見どころ2:藩米精米所

会津武家屋敷には、幕末の会津の生活を垣間見れる施設がいくつかあります。例えばこちらの蔵は、「藩米精米所」。

藩米精米所は今から200年ほど前に建てられた精米所で、当時白川藩で使用していたものを移築復元しています。水車と連動した設備で、水力を利用して一度にたくさんのお米を精米することができました。蔵の中には16個の石臼があり、1日に16俵もの精米をしていたと言われています。当時、東北屈指の精米所だったそうです。
