なぜ昔と同じように山奥でやらないのか?

里山整備、復活事業の一環として、炭焼きを行おう、という動きが有るのは知っているし、それは冒頭に書いたように悪いことではないし、全否定はしない。

しかし、現代においては、それをやる場所を熟考しなさい、と言いたいのだ。

薪ストーブや暖炉についても同様だ。

「やるな」とは言わない。「周囲に迷惑になる場所でやらないでくれ」というだけだ。なぜそんな簡単なことが判らないのか?

なぜ近隣一帯に常に煤煙臭気が及ぶことが容易に予想できるような、住宅近接地で炭焼きをしなくてはいけないのか。

「昔からやっていた炭焼きを復活させただけだから文句言うな」
「里山整備になるのだからつべこべ言うな黙れ」

恐らくはこのように反論するだろう。しかし、これに更に反論する。「炭焼釜を復活させる場所が極めて不適切だ」と言いたい。

なぜ昔と同じように山奥でやらないのか?
なぜ遠くから材料を運び込んで住宅の多数近接した場所でやるのか?
自分たちの炭が売れれば周辺の住環境悪化は知らん顔で無視ですか?

と反論したい。

言うまでもなく、初めから人家、集落から離れた山奥でやってくれれば、こちらもこういった苦言を呈する必要もないのだ。

事業として行っているので、れっきとした公害。規制対象にすべきもの

酷い例がある。釜の運営者は地域の古株で、炭焼釜からは離れた所に住んでいて、その煤煙臭気は自身の自宅には届かない。炭焼釜の煤煙悪臭の被害を与えている地域には住んでいない。

そもそも、近隣一帯に対しては「炭焼釜を作ります、煙と臭いがずーっと出ます」ということのアナウンスも何もない。コンセンサスは全く得ていない。お爺さんたちが大昔を懐かしんでノスタルジーで始めた趣味の一団が、その炭をブランド化して販売し図に乗っている、というよく有りがちなパターン。

最初の頃は冬場に時々しか稼働していなかったのでまだ許せる範囲だが、近年は一年中連続になって、週末中心に煤煙が漂っている。

事業として行っているので、れっきとした公害だ。規制対象にすべきもの。

暖かくなってきて窓を開けてみれば、煙臭いのでやはり窓は閉めざるを得ない。洗濯物や布団も干せない。梅雨時の貴重な晴れ間で換気や洗濯と思ったら煤煙が流れてくる。

言いたくはない言葉を敢えて使いたくなる。

数人のワガママお爺さんたちの道楽のために、何百人もの住民が、ものを言えずにひたすら我慢している。

これをどう視るべきか。

自分は煙や臭気が来ない場所に住んでいて、炭を焼くときだけやってきてモクモクと。これはあまりにも酷すぎると思う。

彼らの言い分では、昔からやっていた、谷戸から立ち昇る煙の風景を復活させたい、というが、私の聞いている範囲では、そんなことは60年以上前には既に無かったと聞いている。

自分勝手なノスタルジーだけで多くの世帯に迷惑になるようなことをしないでほしい。

谷戸の各所から立ち昇る煙の風景が目的なのか。自己満足のために一帯を煙攻めにするのか。許し難い暴挙だ。

販売利益を出しているのなら、煤煙悪臭を除去する装置を取り付けるのが最優先だろう。

そもそも、こんな住宅が多数存在する場所で炭焼きなど、辞めさせてほしい。地域の多くの住民にとっては利益は全く何もない。著しい迷惑だけでしかない。

炭焼小屋を住宅地域に作る間違い:住宅地域で炭焼はやめて
(画像=『アゴラ 言論プラットフォーム』より引用)

炭焼釜の直近の多くの家屋の様子を観察してみたが、窓を締め、洗濯物は外に無い。なぜこんなことが許されるのか。

何せ連続だ。点火すれば最低3日は臭い。つまり、年間通じて週末の長時間、この炭焼の煤煙悪臭をまき散らし続けるのだ。なぜこんな事が、どの風向でも風下に家屋がたくさん存在する住宅地で許されるのか。

規制する法や条例が無いのを良いことに、それを平気で運営するのか。