知的な人は会話の責任が話し手にあると考える

知的な人は、教えるためには自分に「教える力」がなくてはいけない、と思っている。そうでない人は、教えるためには相手に「理解する力」がなくてはいけない、と思っている

かねてより私が心に持っていたもやもやした感覚を、大変きれいに言語化してくれた同氏へ感謝の念を送りたいと強く感じる一文です。素晴らしい!

話というものは徹頭徹尾、語り手側に責任があると思っています。

「面白い話か?つまらない話か?」

「聞いている相手が理解出来る内容か?」

「速度は適切か?」

「表現は分かりやすいのか?」

という点などにおいてです。話の舵取りをするハンドルを握っているのは語り手側しかありませんから、聞く側はそれをありのままに受け止める他はないのです。ですので、誤解して話が伝わり、相手が理解出来ないのであればそれは100%話し手に問題があると思います。

相手が誤解するなら数字や比喩を使う努力をして、理解が出来なければその分野の相手の理解度の確認を怠った態度を反省するべきなのです。具体的には、話の速度を緩め、より優しい表現を使うなど、努力するべきは常に語り手であって聞き手ではありません。その責任が負えないならそもそも語り始めるべきではないと考えます。

「俺様の話を理解できないのは相手の理解力がないから」と考えるのは、自分の話は理解してもらえる形になっていて、分かりやすいはずだという前提に立脚した傲慢な態度と言わざるを得ません。まさに知性の有無はこの態度に如実に現れるものと考えています。

…ですのでこの記事の内容が分かりにくいと思ったら「俺は読解力がないのか?」と思わないで、「黒坂の書き方が悪い」と思ってくれて100%問題ありません(笑)。

知的な人は損得抜きに知識を尊重する

知的な人は、損得抜きに知識を尊重する。そうでない人は、「何のために知識を得るのか」がはっきりしなければ知識を得ようとしない上、役に立たない知識を蔑視する

知識の本質を理解していれば、自分にとって役に立たない知識を軽視する態度にはなりません。人生を変えるには行動が必要、そして行動には知識が必要(過去記事)にも書きましたが、人が行動する源泉は知識によるものです。最初に知識ありき。そこから疑問が生まれ、探求し、そして行動へと繋がります。そして知識というのは組み合わせることで価値を生むものです。

経済学者のヨーゼフ・シュンペーター氏は「イノベーションとは異なる知識の組み合わせから生まれる」と言っています。小難しい理論書と、子供が夢中になる漫画が出会って成功した「もしドラ」なんかもそうですよね。「難しいビジネス理論書×萌えキャラが漫画で優しく伝える」という2つが組み合わさったことで、同書は2013年に255万部を突破するメガヒットを飛ばしています。

今、この瞬間、自分の役には立たない知識は、組み合わせのシナジー効果で将来どんな恩恵をもたらしてくれるのかは想像もつきません。ですので、どんな知識も損得抜きに尊ぶべきであり、損得だけで知識と向き合う態度は知識の本質を理解できていない、表層的な視野の持ち主であることを示すものと言えます。