私の環境問題との出会い

前回詳しくお話ししたように、私はベトナム戦争最盛期の1960年代半ば、旧南ベトナムの首都サイゴン(現ホー・チ・ミン市)の日本大使館に勤務し、歴史的な「テト攻勢」(68年)に巻き込まれて危うく一命を落としかけたりしましたが、奇跡的に生還し、同年秋に帰国。東京の外務本省勤務を始めました。

その後国連局(現在は総合外交政策局)の科学課勤務となり、そこで、当時「ビッグサイエンス」と称された原子力平和利用、海洋開発、宇宙開発、南極問題等を担当することになりました。東京オリンピックの4年後ですが、ちょうどこの時期、戦後の高度経済成長の「落し子」として発生していた公害問題(水俣病、四日市病など)が全国各地で深刻な社会問題となっていました。

同じ頃、海外では大気汚染、酸性雨、海洋汚染などの越境汚染、野生動植物や貴重文化遺産の保護等々、多種多様な「環境」問題が表面化しており、これらを解決するための国際協力の必要性が叫ばれていました。そのことを最も熱心に唱えたのはヨーロッパ諸国です。

とくに北欧のスウェーデンは、美しい森と湖で有名で、古くから国民の自然保護意識が高い国ですが、当時、旧ソ連圏の東欧諸国の火力発電所や工場などから発生した大量のCO2がバルト海を越え、酸性雨となってスウェーデンの森林や湖沼を汚染したことに危機感を持っていました。

そこで、スウェーデン政府は、こうした汚染や自然破壊の悪化を防ぐためには国際協力が不可欠と考え、国連総会で強く訴えました。その結果、68年の総会で「国連人間環境会議」を72年6月にストックホルムで開催することが決定。この会議のために特別の準備委員会が設置され、私が日本政府の窓口担当官として3年間関与することになりました。これがその後の私の人生に大きな影響を与えたのです。

50年前に最初の環境会議開催

さて、このような経緯を経て、ジャスト50年前の今日、72年6月5日、スウェーデンの首都ストックホルムで、「国連人間環境会議」と称する大国際会議が開催されました。

日本はエネルギー危機に備えよ:ストックホルム会議50周年に思う㊤(金子 熊夫)
(画像=ストックホルム会議
出典:図で見る環境白書(昭和47年版環境白書)、『アゴラ 言論プラットフォーム』より引用)

現在では、国連主催の大型国際会議は頻繁に開かれており珍しくありませんが、当時は、未曽有の、画期的な国際会議として世界的に注目されました。そして、2週間にわたるこの会議こそ、その後開催された数々のグローバルな環境問題の出発点となったのです。

一昨年11月英国グラスゴーで開催された、地球温暖化防止のための国連気候変動対策会議(C0P26)もストックホルム会議の延長線上に位置づけられます。

現在ではこの会議のことはすっかり忘れられてしまった感がありますが、「かけがえのない地球」というキャッチフレーズを記憶している人は少なくないでしょう。手前みそながら、この有名なフレーズは、ストックホルム会議の2年ほど前に、同会議の公式スローガンであった「Only One Earth」の日本版として、私が自ら考案したものです。それには深い動機がありました。