世界は激変している。だが日本のエネルギー政策は変わることが出来ていない。本当にこれで大丈夫なのか?

脱ロシアの次は脱中国、脱中東、脱・脱炭素が必要だ
(画像=kimberrywood/iStock、『アゴラ 言論プラットフォーム』より引用)

脱炭素の前に脱ロシア?

ウクライナでの戦争を受け、日本も「脱ロシア」をすることになったが、「脱炭素の前に脱ロシア」ということで、脱炭素についての方針は変わらないようだ:

脱ロシアの次は脱中国、脱中東、脱・脱炭素が必要だ
(画像=電気新聞より、『アゴラ 言論プラットフォーム』より引用)

ここで言及されている「クリーンエネルギー戦略」に関する政府資料を見ると、脱炭素に関しては、従来から言われていた政策と全く変わらない。すると、やはり莫大なコストを掛けなければこれは実現できるはずがない。

他方では、下のスライドの最後の文では「コスト上昇抑制のため政策を総動員」と謳っている。だが、一方で莫大なコストのかかる脱炭素政策をやっておきながら、一体何を総動員するというのか、矛盾している。

エネルギーコストを下げる政策として、現状に思いを馳せると、ガソリンへの補助金ぐらいしか思い当たらない。だがこれとて弥縫策に過ぎず、本当の意味では日本国民にとってのコスト低減には全くなっていない。

脱ロシアの次は脱中国、脱中東、脱・脱炭素が必要だ
(画像=クリーンエネルギー戦略 政府資料より ※黄色ハイライトは筆者による、『アゴラ 言論プラットフォーム』より引用)

脱ロシアをしたらその後は既定方針どおり脱炭素、というのは、ウクライナ戦争によってはっきり露呈した地政学的状況の激変を無視した、平和ボケした考えに過ぎないのではないか?

ユートピア思想の落とし子だった地球温暖化問題

地球環境問題が国際的に注目されるようになったのは、1992年の「地球サミット」のころからだ。このサミットでパリ協定の親条約にあたる気候変動枠組み条約も合意された。

これが1991年のソ連崩壊による米ソ冷戦終結と同時期なのは偶然ではない。東西のイデオロギー対立が終了し、フランシス・フクヤマは民主主義の勝利による「歴史の終わり」を宣言した。

「世界全体が欧米型の民主主義に収斂して、平和が達成される」というユートピア的な高揚感のもと、世界全体が協力して解決すべき課題として、地球環境問題が大きく取り上げられるようになったのだ。この冷戦と地球環境問題の関係については米本昌平氏が詳しく書いている。

ところが世界は民主主義にならなかった。経済成長した中国は、欧米が期待したように民主主義になるのではなく、ますます独裁色を強め、世界の覇権を伺うようになっていった。このことに米国がはっきり気づいたのは、マイケル・ピルズベリーが「China 2049」を著した2015年ごろからだ。

ちなみに2015年はパリ協定が合意された年でもある。パリ協定はユートピア的な世界観の落とし子であった訳だ。