ベトコンと米軍の狭間で
いつどこからどちらの弾丸が飛んでくるか分からないので、静かにベッドや食卓、本棚などを積み上げてバリケードを作り、その中に潜んでいましたが、もし機関銃でやられたらおしまいです。とくにフォーン川をさかのぼってきた米軍の艦砲射撃や戦車砲は強力で、コンクリート造りの大学の建物でも命中すると一発で吹き飛びます。砲声によって瞬時に方角を判断し、少しでも安全な場所に移動せねばならず、体力も神経も消耗します。
こうした状況から判断して、私のいた建物もいつやられるか分からず、このままでは私も死ぬかもしれぬと不安になりました。一方、心の中では、「こんなところで死ぬわけにはいかん。死んだら犬死だ。絶対に生き延びるぞ」と腹をくくりました。
しかし、夜になっても電気はつかず、マッチで明かりをつけることもできないので、真っ暗闇。銃声や砲声は止まず、緊張感は高まるのみ。室内で息を殺してじっとしていると再び不安感が募り、弱気になります。
元々フエは、サイゴンに比べ涼しい気候ですが、テトの期間中は小雨がしとしと降って、寒くて陰鬱。おまけに連日食べ物も無いので空腹と緊張感で悪寒がし始めます。そんな時、近くに住んでいたベトナム人たちが、大学の堅牢な建物の中に大勢避難してきて、テト用の保存食を分けてくれました。粗末なものでしたが、ぜいたくは言えないので、有難く頂戴して飢えをしのぎました。
空腹よりも何よりも一番困ったのは、情報の欠如です。テレビのない時代で、避難民が持ち込んだ安物の携帯ラジオだけが頼りでしたが、英語の短波放送が雑音でうまく聞こえず、外部の情報が全く入らないので、自分が今置かれている客観的な状況が把握できません。しかも、こっそりラジオを聴いていることがベトコン兵にばれると怪しまれるので、油断できません。日頃サイゴンの大使館で内外情報の洪水の中にいただけに、この情報遮断には弱りました。(こうした状況をいちいち詳しく書くとキリがないので、割愛し、先を急ぎます)
あいまいな中立は許されない
最初の1週間ほどは、共産側(北越軍とベトコン)が圧倒的に優勢で、私たちは彼らの支配下に置かれていましたが、その後徐々に米軍と南越軍が劣勢を挽回し、大学の構内近くまで米軍の海兵隊が迫ってきました。
どうやらベトコンの主力部隊は撤退し、フォーン川北岸の王宮内に立てこもったようです。そのことが分かった段階で、私はいつここから脱出して米軍に救出を求めるべきか、大いに迷いました。

一つタイミングを間違えると、どこからベトコンの狙撃兵に撃たれるかもしれない。かといって、いつまでもベトコンの近辺にいると、米軍の攻撃の対象となる。まさにぎりぎりの状況での難しい判断でしたが、結局チャンスをみて米軍側に駆け込みました。
そのとき改めて痛感したのは、戦場においてあいまいな「中立」はあり得ないということです。自分は中立だと思っていても相手がそれを認めてくれるわけではない、自分の目で、冷静に状況判断し、最も確かな側を選んで果敢に行動する。それしか生き延びる方法はありません。
そういえば、テトのかなり前から、サイゴンで毎日聞いていたベトコンの地下放送では、日本政府のことを常に「軍国主義で親米的な佐藤(栄作)政権は…」と呼んではっきり敵意を示していました。その政権の外交官ということがばれれば、ただでは済みません。だから彼らに自分の身分を明かすことは最後までしませんでした。
正直に告白すれば、テト攻勢以前、私は日本政府の一員として当然米国の政策を支持する立場でしたが、内心では多くの日本人と同様に米国のベトナム政策に懐疑的、否定的で、米国留学中はこっそり反戦デモに参加しました(このことは本欄で再三記述した通り)。しかし、そう釈明したところで彼らが信用してくれたとは思えません。自分の考え方の甘さをその時はっきりと思い知らされました。