他者意識の決定的な欠落
二つ目は他者意識、特に「視聴者や関係者が動画を見てどのように感じるのか」という意識の欠落である。例えばAは反社会的な動画を頻繁にアップロードする一方で、Aのことを「もっと褒めろ」「もっと同情しろ」「かわいそうだと思え」という内容の動画も複数回アップロードしている。ここから読み取れるのは「自分の感覚と他人(=視聴者)の感覚は同じである」という、自分の感覚への妄信である。そしてそこには、自分と考えや価値観が異なる他者が存在する余地はない。
特に迷惑系ユーチューバーの場合、思想信条もエビデンスもなく、自分が目立ちたいという理由だけで反社会的行為に走ることが多い。そこには自身の行動の結果として被害を受けたり不愉快に感じたりする他者の存在がそもそも想像できていない、あるいは想定できていたとしてもあえて無視するなど、他者意識が著しく欠落していることが多いと考えられる。
ただし、動画の内容に思想信条などが絡む場合、異なる他者を想定したとしても動画内で自分の意見を主張することで、視聴者との間で軋轢が発生することは往々にして起こりうる。そういう動画と迷惑系ユーチューバーの動画は明確に区別しなくてはならない。
家庭環境と反社会的行為
他者意識に関してもっというならば、迷惑系ユーチューバーは適切に他者意識を涵養できないまま育った可能性も考えられる。数か月前Aの親に話を聞く機会に恵まれたが、親はAがYoutubeで反社会的な内容の動画をアップロードしていることに対し「私たち家族はAの好きにさせてあげたい」「AがYoutubeで元気を取り戻して親としても安堵している」「AはYoutubeのおかげで成長できた」という旨の発言をしていた。そこにはAの行為の結果被害を受けたり迷惑に思ったりする他者の存在がまるで欠落していた。
もちろん、Aの親を責めるつもりは毛頭ない。Aの反社会的行為によりAの親も多大な迷惑を被っている。しかしそれでもAの親の話を聞くにつけ、Aは他者意識を涵養できる機会に恵まれたのだろうかと疑問符がついた。他者意識を涵養するには学校教育ももちろん重要だが、家庭教育も重要である。その家庭で他者意識を涵養する機会がないのなら、今後も迷惑系ユーチューバーが量産され続けることだろう。