悲劇のはじまり

ところが、5年後の1975年にラベンダー栽培農家は92戸、栽培面積も65ヘクタールに減り、約8割ものラベンダー畑が消滅してしまいました。ラベンダーの買い取り価格は据え置きなのに対し、他の農作物は価格が上がっていったためです。そして1976年には曽田香料と農家による契約栽培は完全に打ち切りとなってしまいます。

その原因は3つありました。1つ目は、国産ラベンダーオイルの価格が高いこと。戦時中は中断されていた輸入が再開し、輸入品との価格差が問題視されました。

2つ目は、曽田香料の経営体制が刷新され、総合商社と大手化学メーカーの資本が入ったこと。外部からの役員も加わり不採算部門が整理されました。

3つ目は、化学の進歩により合成香料が広く使われるようになったことです。天然香料は、天候に左右され品質や供給量が安定せず、また栽培される土地により品質にバラツキが出ます。

合成香料の進化により天然香料事業が次第に斜陽化し、事業として成立しなくなったのです。 こうして、30年にも満たない短い歴史で北海道のラベンダー栽培は終えようとしていったのでした。

一枚の写真

終焉を迎えようとしていた、北海道のラベンダーが復活するきっかけ、それは一枚の写真。

風景写真家の前田真三氏撮影の「ラベンダーと十勝岳」という上富良野の風景写真が、1976年版の国鉄カレンダーに掲載されます。当時、国鉄カレンダーは企業カレンダーの最高峰と言われ大きな影響力があったのです。前田氏のこの写真が多くの人々の目に触れ、北海道のラベンダーを世に知らしめたのでした。

中富良野町の農家・冨田忠雄氏は、ラベンダーの買い取りが打ち切られた後も、ラベンダーへの愛着から他の作物への転作に踏み切れずにいました。稲作で収入を得ながらラベンダー畑も維持していたのです。

冨田氏のラベンダー畑は高い丘の斜面にあり、国鉄富良野線の車窓からも並行して走る国道237号線からもよく見える場所でした。そのため、1976年の夏には「ラベンダーと十勝岳」の写真を見て富良野へ撮影に来た人々が、この丘の畑に殺到することに。

冨田氏の畑は、やがて一般の観光客も訪れるようになり年々猛烈な勢いで増加していきました。これが現在の富良野を代表する観光地であるファーム富田へと繋がっていくのです。