令和4年(2022)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての商人・茶人として知られる千利休の生誕500年の年です。
利休は織田信長と豊臣秀吉という名だたる戦国武将に仕え、信長の茶頭(さどう)となり「茶室外交」を推し進めたほか、茶頭の立場を越え政治・軍事のアドバイザーにもなるほどの権力や地位を確立しました。
今回は、千利休や彼が残したものの魅力と近辺に伝わる影響などを、ご紹介したく思います。
千利休とわび茶

千利休は、村田珠光が創った「わび茶」と呼ばれるお茶の様式を完成させた人物だと言われています。
鎌倉時代に栄西によって禅宗とともに宋から伝えられた抹茶。それまでの茶席では、高価な中国製の茶器を使う豪華絢爛なものでした。また、茶の銘柄を当てる「闘茶」という遊戯などが横行しており、賭博対象にもなっていたそうです。
それに対し、村田珠光は粗末な道具を使い四畳半以下の茶室で、「わび」の精神性を重視した茶の湯を始めました。堺の豪商だった武野紹鷗(たけのじょうおう)がさらに深くわび茶を追究し、その弟子であった利休が大成させ、茶の心を世に広めました。
北野天満宮と北野大茶湯
学問の神様を祀ることで知られる北野天満宮ですが、天正15年(1587)10月、秀吉によって北野天満宮で大茶会「北野大茶湯(おおちゃのゆ)」が開催されました。この一大イベントをプロデュースしていたのが、千利休と言われています。
それまでの茶会では天皇家や公家や武家など、参加できるメンバーを限定していましたが、この大茶湯では「茶湯に執心で、茶道具の何かひとつ、なければ代替のものを持参すれば、身分を問わず参加できる」という高札を掲げ、誰でも参加できるようにしたといいます。境内には着飾った町衆、商人、茶人、武家たちが集まり、800余りの茶席が境内を埋め尽くしたそうです。
北野天満宮には、北野大茶湯の石碑や井戸がまだ残っています。

