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市民と行政が共に保存に動き出した
運河を救ったのは一人の主婦?

市民と行政が共に保存に動き出した

長年にわたって市民と行政は対立していましたが、次第に行政が運河保存に理解を示しはじめ、結果、道路の半分を埋め立て、半分を保存するという折衷案で決着が図られました。

こうして、運河は半分保存されることとなって、小樽市は散策路を整備し街路灯が設置され、昭和61(1986)年に現在の小樽運河の整備事業が完了したのです。

運河保存に舵をきった小樽市は一転、景観の保全に動き出しました。昭和58(1983)年には小樽運河周辺の古い石造りの倉庫などの建造物や景観を保護する条例を制定したのです。

北海道観光の目玉 小樽運河は埋め立てられていたかもしれない!
(画像=『北海道そらマガジン』より引用)

運河を救ったのは一人の主婦?

この保存運動の中心となったのは、主婦の峯山富美さんでした。埋め立ての杭打ちが始まった現場で、先頭に立って工事の中止を訴えました。峯山さんは昭和53(1978)年に「小樽運河を守る会」の会長に就任し、運動をより大きなムーブメントへと発展させ、保存を勝ち取ったのです。しかし、運河の全体保存を求めていた守る会にとっては、運河半分の保存は本意ではなかったのでしょう。昭和61(1983)年に峯山さんは会長の座を退かれます。

それ以降も小樽の景観保護に関わり、一連の功績が認められて日本建築学会・文化賞を受賞されましたが、その2年後、平成22(2010)年にこの世を去られました。

2021年には「小樽運河保存運動の母」とよばれる峯山さんの没後10周年を記念した展覧会が小樽で開催され、故人をしのび、小樽市長をはじめ多くの人が来場しました。