人気の観光地・小樽運河には季節を問わず多くの観光客が訪れています。いまや北海道観光の目玉ともなっている小樽運河の周辺には、お土産店や寿司店などの飲食店が立ち並び、いつも賑わっています。でも、もし運河が存在していなかったら、これほど人気の観光地になっていたのでしょうか?
実は今から約50年前、小樽運河を埋め立てるという計画が進められていました。現在の小樽運河の賑わいの陰には、その計画に反対する市民と小樽市との間で繰り広げられた長い対立の歴史があったのです。
目次
小樽運河の栄枯盛衰
景観が破壊されることを危惧した市民が保存に動き出す
小樽運河の栄枯盛衰
小樽運河は、9年の歳月をかけて大正3(1914)年に完成しました。小樽は江戸時代から鰊漁場として、また北前船の玄関港として栄えてきましたが、明治時代には殖産興業政策の下に、石炭などの重要物資や開拓民の生活を支えるための物資を輸送するための交通の要衝としてますます繁栄しました。小樽は北海道の中核的な経済都市にまで発展し「北のウォール街」とよばれるようになったのです。こうした小樽の急成長を背景に小樽運河は作られました。
しかし、昭和に入ると港湾整備の近代化が進み、大型船が港に接岸できるようになると、運河は次第に使われなくなりました。そして戦後、経済の中心は札幌へと移り、徐々に小樽は衰退していきました。同時に利用価値を失った小樽運河にはヘドロがたまり、ごみが捨てられて悪臭を放ち、疎んじられる存在となっていったのです。
そこで小樽市は港湾物流の活性化を図って小樽港の再開発に乗り出しました。その計画の内容は、運河をすべて埋め立ててその上に広い港湾道路を建設するというものだったのです。

景観が破壊されることを危惧した市民が保存に動き出す
当時、負の遺産ともいわれた小樽運河の保存運動が巻き起こったのは昭和48(1973)年の事でした。市の計画に反対する市民が中心となって「小樽運河を守る会」が結成され、計画の凍結と運河全体の保存を求めて、行政・財界と対立したのです。
この運動は約10年以上にわたって続けられました。その間、「小樽運河百人委員会」が結成されて運河保存を望む10万人の署名を集める等、多くの市民、道民を巻き込み、全国にも知られる運動にまで発展したのです。