今から48年前の1974年にミスター日本となった須藤孝三選手は、その後、NABBA(National Amateur Bodybuilders Association)世界選手権のミディアムクラスで2連覇を果たした。当時のNABBAはIFBB(International Federation of BodyBuilding & Fitnes)よりも規模が大きく、レベルも高いことから‟ミスターユニバース”といえばNABBAの世界選手権を指していた。当時はドーピングの規制もなく、外国人選手がこぞってステロイドを使用していた時代に、なぜナチュラルの須藤氏が勝てたのか。それは現在のボディビル界にも通じる、須藤孝三氏のマインドにあった。
「バーベルは自分に応えてくれる。だからボディビルに夢を賭けたんです」
IM 「世界で勝ったこんな日本人選手がいたんだ」と須藤孝三選手のことを初めて知った若いボディビルダーもいたそうです。
須藤 私はよく人ができないことをやったと言ってくれる人がいますが、それは普通の人がなかなかできない生い立ちをしているのも関係していると思います。
IM かなり貧しい環境だったそうですね。
須藤 生まれは岐阜県なのですが、小学校3年のときに両親が離婚して、父方の実家のある三重県に引っ越してきました。父の姉が所有していた家を借家にしていたのですが、元は農家で物置があったので、その物置を借りて父と移り住んだわけです。
家にかまどはあっても間借りだから貸してもらえなくて、七輪で火を起こしてご飯を炊いていたんです。水は井戸水、洗濯はたらいに水をくんで洗濯板でゴシゴシ洗っていました。そういう生活を小学校3年からやっていました。
冬は霜焼けやあかぎれがひどくて、学校でも「須藤君の指はちぎれ落ちそうだ」とよく言われていました。しかもなかなか治らなかったです。なぜかというと食べ物が悪かったんです。昔の子供はみんな鼻水をたらしていたでしょう。あの原因は栄養状態が悪いからなんです。当時の貧しい家庭の食べ物といえば、ご飯に醤油をかけて食べたり、たまにおかずがある時はキャベツだけとか。私も一年中、鼻炎でしたね。鼻がつまると、喉をやられて、治ったらまた鼻炎になってという繰り返し。
そういう生活だったので、体が丈夫になりたい、丈夫になるには鍛えることだと思いました。そういう気持ちが子供のころからありました。
IM 貧しい環境だったのが鍛えるきっかけになったのですね。
須藤 「千里の道も一歩から」ということわざがありますが、裕福な家の子どもが頭でそれをイメージするのと、貧しい家の子どもが実体験でそれを経験するのでは雲泥の差があるでしょう。それが後々ボディビルをやる上でものすごく役に立ちましたね。
IM 実際に体を鍛え始めたのはいつごろでしょうか?
須藤 小学校6年のときにエキスパンダーを手に入れてやってみたんですが、なかなか力の調節がうまくいかなくて。スプリングが2本では楽にできるけれど、3本では全くできないとかね。だから中学2年のときに自分でバーベルを作ったんです。
「効果が出ないからやめていく人も多くて、残っている人は素質がある人ではなく、辛抱強い人なんです」
IM どうやってバーベルを作ったのですか?
須藤 セメントを買ってきて、川に砂を取りに行って自分で練って作ったんです。市販の着脱できるプレートと同じように1.25㎏、2.5㎏の型を取っていたので、その倍数で5㎏、10㎏とね。セメントと砂を混ぜる割合とかも図書館で調べて、小遣いがたまったらセメントを買ってきて、砂を取りに行ってというのを続けて、1年くらいかけてトータルで百数十㎏は作りました。バーは鋼材屋で長さや太さが同じくらいの鉄の棒を探して買ってきました。
IM よく昔バーベルを作った人の話を聞きますが、バーにコンクリートの塊がついているだけだったりします。須藤さんの場合は2.5㎏単位でプレートを作られるなんて、細かいところまでこだわりがありますね。
須藤 性格がきちょうめんなんです。この性分は食事の取り方、トレーニングのやり方、ポーズの取り方もすべてに応用が効くんです。
昔はプロテインがないから魚を食べる、肉を食べるといっても自分で買いに行って自分で調理しなければいけない。貧乏だから少ないお金でも効率よく栄養を取らなければいけないとなったときに、その方法をいろいろ考えるわけです。それが体験的に当たり前のことだったんです。
当時は今ほど良い体をしている人が少なかったんです。当時のボディビルダーの話を聞くと、牛乳を一日何本飲むとか、大豆をミキサーにかけて飲むとか。それでもなかなか筋肉というのはつかないんです。効果が出ないからやめていく人も多くて、残っている人は素質がある人ではなく、辛抱強い人なんです。
昔はトレーニングよりも、栄養を取ることが大変でした。プロテインはないし、肉は高いし(笑)。朝昼晩と大豆を食べて、面倒くさいからといって、ちょっとでも気を抜くことができない。その大変さを乗り越えることができなければ望むような体は得られないんです。
IM そういう状況からハングリー精神が養われたのですね。
須藤 そうですね。中学を卒業したら高校に進学するという考えはありませんでした。兄弟も中卒で働いていましたから。当時クラスに45人くらい生徒がいて、そのほとんどは進学していたので、孤独感はありましたね。その気持ちの発散という意味でトレーニングは役に立ちました。バーベルは自分に応えてくれる。だからボディビルに夢を賭けたんです。
IM トレーニングは心身共にいい影響があるといわれますが、それを中学生のころから実感されていたんですね。
須藤 手作りのバーベルトレーニングの効果は抜群でした。中学2年でトレーニングを始めて3年のときの校内陸上競技大会の砲丸投げで新記録を出したんです。田舎の中学校だから記録自体はたいしたことないけれども、「これがトレーニングの効果なんだな」ということを実感しましたね。50メートル走でも学年でベスト4に入りました。トレーニングはすごいなと。
IM 体を鍛えるというところから、『ボディビルコンテスト』に出場しようと思われたきっかけは何だったのでしょうか?
須藤 藤田勉さんという社会人壮年の部で優勝するような方が、職場の目の前の会社に勤めていて、知り合いになったんです。藤田さんが日本選手権の招待券を持っていて「自分は用事で行けないから、君が行くか?」と言われてその招待券をもらったんです。それで東京まで見に行きました。18歳で最初に見たコンテストが日本選手権。しかも招待席だから一番いい席で観戦できました(笑)。
当時はまだ自分がこの大会に出ようとか、出られるとも思っていなかったのですが、ただ最初のきっかけがトレーニングして丈夫な体になろうということだったので、気持ちの中では筋骨隆々でたくましい体に憧れがあるわけです。
帰りの夜行電車に大会に出ていた選手が一緒に乗っていて、なんとか話しかけることができないかと思っていたんですが、彼が降りる間際に意を決して「大会に出ていましたね。すごいですね」と声をかけたんです。予選落ちの選手だったけど、当時の自分にとっては雲の上の存在ですからね。初めて日本選手権を見て、その大会に出ていた選手と話すことができたと、一人で喜んだ記憶があります。
IM その後コンテストに挑戦されるのですね。
須藤 四日市にあるジムに通い始めたんですが、そこのジムを教えてくれた2歳上の友人、森正広さんと日本選手権の三重県代表の選考会に出て5位に入りました。浜辺が会場のローカルな大会でした。その後、神奈川県の葉山マリーナで開催された全日本実業団にも出場して、ここでも5位でした。
実業団は6位までが日本選手権に出られるので、実業団の代表というかたちで、19歳で初めてミスター日本に出たんです。
IM 初めて日本選手権に出た感想はいかがでしたか?