ルール改正の歴史
1857年 | 21点先取制を取りやめ、9回終了時点で得点の多い方が勝ちとなる |
1858年 | 見逃しに対してストライクのコールがされる |
1863年 | ストライクではない投球にボールがコールされる |
1864年 | ワンバウンド捕球ではアウトにならなくなった |
1872年 | スナップスローが解禁 |
1879年 | 9ボールで1塁に進めることになる |
1880年 | 8ボールで1塁へ。3ストライクでアウトになるルールを採用 |
1882年 | 7ボールで1塁へ。サイドスロー解禁 |
1884年 | 6ボールで1塁へ。オーバースロー解禁 |
1886年 | 7ボールで1塁へ |
1887年 | 打者が投手に対して投球コースを指示できないようになった。5ボールで1塁へ。この年のみ5ボールは安打となった。4ストライクでアウトになり、デッドボールでの出塁も認められた。 |
1889年 | 4ボールで1塁へ。 |
このように、現在の野球の形ができてきました。
ここからさらにルールの改訂を繰り返しながら、現在のスタイルになっていったのです。
最近では、コリジョンルールなどが記憶に新しいのではないでしょうか。
甲子園の歴史
甲子園の歴史は語りきれないほど奥が深いです。一部を抜粋して紹介します。
全国高校野球大会が始まったのが1915年です。当時は全国中等学校優勝野球大会という名前でした。場所は豊中球場です。
1916年の第2回大会では敗者復活制度が行われていました。一発勝負の現在の試合形式ではなく敗者にもチャンスが与えられる制度でした。この方式は第3回大会まで行われています。
第3回大会は会場が鳴尾球場に変更されました。甲子園球場が出来上がるまで存続し、甲子園球場完成とともに廃止されています。現在は団地となっています。
1918円の大会は米騒動の影響で中止となりました。
1924年の第10回大会から阪神甲子園球場に変更されています。
戦争での影響もありました。1941年の大会は太平洋戦争の影響で地方大会の中で中止されました。
その後、1945年まで中止されています。1942年は全国中等学校野球大会が開催されていますが高校野球とは独立とした大会とされています。
1946年には大会が開催されましたが敗戦による影響で地方大会が消滅しました。戦争の影響が続いて、1954年には沖縄県以外の県が地方大会に参加しました。
1958年ようやく沖縄県が参加し、これで全国都道府県の代表47校で争われるようになりました。
ちなみに阪神タイガースが甲子園球場を利用し始めたのは1948年のことです。この時から既に高校野球と併用していたのですね。
このように高校野球と甲子園は切っても切れない縁があり深い歴史があるのです。
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