2020シーズンをもって現役引退した、東京ヤクルトスワローズ・五十嵐亮太さん。かつては、日本球界最速タイとなる158km/hをマークするなど、自身のストレートにこだわりを持ち、常に高みを目指してきた。そんな五十嵐さんを支えてきたのはスピードだけでなく、心と身体を休息する自分だけの場所があったこと。今回は、お気に入りの日本料理 菱沼(ひしぬま)で、これまでのキャリアを振り返りながら、五十嵐さんが思う「隠れ家」の魅力を語ってもらった。

目次
野球好きな五十嵐少年は、少しずつ勝負することへの魅力に引き込まれる
プロ野球選手として長く活躍するため試行錯誤を繰り返す

【プロフィール】元プロ野球選手/野球解説者 五十嵐 亮太(いがらし りょうた)
1979年、北海道生まれ。敬愛学園高等学校へと進学し、1997年にドラフト2位指名でヤクルトスワローズへ入団。クローザー転向後は最優秀救援投手や優秀バッテリー賞を獲得したほか、2004年には(当時)日本人最速タイ記録となる158km/hの豪速球を見せる。その後、メジャー・リーグに挑戦し、MLBニューヨーク・メッツをはじめ、ピッツバーグ・パイレーツ、トロント・ブルージェイズなどを渡り歩く。日米通算900試合登板を達成し、2020年のシーズンで引退した。現在は野球解説者として多方面で活躍している。

野球好きな五十嵐少年は、少しずつ勝負することへの魅力に引き込まれる

「次のステップを踏むために欠かせない居心地の良い空間」|元プロ野球選手/野球解説者・五十嵐亮太
(画像=『男の隠れ家デジタル』より引用)

野球との出会いは、母が町内会の野球の監督から「野球チームに子どもを入れてみませんか?」と誘われ、そこから母に連れられて野球チームに行ったのがきっかけです。自ら進んで野球を始めたわけではなかったですが、とにかく野球が好きで楽しくてという幼少期を送っていました。高校生を迎えるころには、勝負することの面白さや、勝ち負けで一喜一憂する野球の奥深さに魅力を感じるようになります。そして、高校に上がると、運命的な出会いが待っていました。

敬愛学園高校に入学すると、監督がピッチャー出身で甲子園に出場した古橋先生という方で。内野手だった僕に対して、「ピッチャーをやってみないか?」と転向を勧められました。肩の強さを見抜いた古橋先生により投手への転向を促され、県内屈指の豪腕投手と呼ばれるまでに成長できました。

ターニングポイントになったのが、高校2年生の春の大会で登板したことです。相手チームにプロのスカウトが注目する選手がいたんです。その選手を見に来たスカウトが、僕が良いピッチングをしたので、それからグラウンドにスカウトの人が来るようになりました。そのチャンスを逃すまいと、練習量も一気に上げて更なる高みを目指し、その結果、高校3年の秋にドラフトでヤクルトスワローズ(現・東京ヤクルトスワローズ)から2位指名を受け入団が決定しました。

甲子園に出場しているピッチャーに比べると、実力の面では劣っていたと思います。ただ、投手としての絶対的な武器“ストレート”があったことで、将来性を評価してくれたんだと感じています。

プロ野球選手として長く活躍するため試行錯誤を繰り返す

「次のステップを踏むために欠かせない居心地の良い空間」|元プロ野球選手/野球解説者・五十嵐亮太
(画像=『男の隠れ家デジタル』より引用)

プロ野球選手になると、それまでやってこなかったウェイトトレーニングを始めたほか、ただ走るだけでなくランニングの質にも意識を向けました。その甲斐もあり、体が大きくなり、わずか2年で球速が10km/hもアップ。「トレーニングで体を鍛え、投球の技術を高めていくことで、ピッチングのレベルは上がっていく」そう信じ続け取り組んでいたことが、結果にもつながりました。

2000年に最優秀バッテリー賞、2001年の日本一に貢献でき、2004年に最優秀援護投手を受賞できました。メジャーリーグから帰って来た翌年の2014年には、常勝ソフトバンクで「勝利の方程式」の一人としてキャリアハイの結果を残せました。

自分の中で、プロ野球選手として長く活躍するために大切にしていた流儀があるんです。短期間で成長する選手像よりも、長く投手として投げられる選手像を追い求めて、練習やトレーニングに取り組む。そのために何が必要なのかを若いときからずっと考えていましたね。自分の体を甘やかしちゃいけないと思うタイプだったので、自己治癒能力を高めるために、ストレッチでほぐせる範囲は自分でやる。年を取って自分で手が届かなくなったら、「疲れが取りにくい個所をトレーナーに任せましょう」という先輩のアドバイスを参考にしながら、1日1日を送っていました。