黒坂岳央(くろさか たけを)です。
世の中はとかく「成功者はこれをやっている!」「自分を高める習慣とは?」といった「新しく価値のあることをやりたい!」という風潮がある。その考えは間違いだとは思わない。新たなる習慣で人生が切り開かれることはあるだろう。
だが、それと同じくらい「捨てるべき習慣」もあると思っている。今回は筆者の独断と偏見で選ぶ「これをやめることで人生がよくなった」ということを自己体験的に取り上げてみたい。もしも、あなたの人生から少しでも生きづらさがなくなるヒントになれば幸いだ。

1. 察してもらおうとすること
筆者はかつて、とても面倒くさい性分であった。何も言わず、相手が気を回して自分のことを理解してほしいと 願っていた。20歳そこそこでは、一回り以上年上の人間に囲まれて仕事をして、周囲の人たちから若いという理由だけでかわいがられていたことで、その面倒な性分が強く醸成されてしまったと内観する。
朝から不機嫌な表情をしていれば、周囲の人は気を使ってお菓子をくれたり、猫なで声で話しかけてくれた。いつしかそれが当たり前だと思うようになり、自分の感情を口に出さずとも表情で訴えることで周囲に行動を促すことをしていたりした。
周囲が自分を見て察してくれ、温かい対応をしてくれていたのは相手が単に自分より大人だからであり、相手の人の良さを狡猾に利用していただけに過ぎないのだと後ほど悟った。そのことを理解したのは、自分が年上の立場になることが増えた環境に身をおいてからである。
察してもらうことをやめると、察してもらえない相手にイライラすることはなくなり、人生は楽になった。
2. 憧れの人物を作ること
「日本人は無宗教だ」と、当の日本人である我々は考えがちだ。実際、日本には仏教の割合が多いわけだが、個人的には「憧れの人物」に対してまさしく宗教に近い感覚を持つ人が多いと感じる。インフルエンサーや、ライバー、YouTuber、ブロガーなど、影響力のある人を追いかけ、彼ら/彼女らを崇拝し、応援する人はよく見る。お布施のように投げ銭をする人もいる。
筆者もかつてはそうだった。ビジネスの有力者を追いかけ、「あの人はすごい方なんだぞ」と自分が追いかけている有力なビジネスマンを積極的に周囲に吹聴するという「熱心な布教活動」をしていた時期もあった。だがやめた。もう自分には教祖が必要なくなったからだ。
自分では心細いので、人生の進むべき指針を誰かに示してほしい。人生の難しい決断を委ねたい。憧れの対象に求めるのはそうした事が多いのではないだろうか。だが、自分の足で人生を歩き、その必要性がなくなった時から、憧れの人物は自分の前からいなくなった。スキルやビジネスなどの実力に対しては今でも「すごいな」「学びを得たいな」という賞賛の気持ちはあるが、過剰に人的崇拝をしたり人生の大事な決定事項を相手に委ねたりすることは、もうない。