「しめた、日本が罠にはまった!」

この時点で突然、米国のハル国務長官が日本軍の仏印及び中国からの全面撤退を求める覚書を突き付けます。仏印はともかく、中国からの撤退は、日露戦争以来日本が営々と築いてきた利権(満州を含む)を全部放棄することを意味し、日本にとっては到底受け入れられないこと。米国もそれを承知の上で強引に突き付けてきたわけで、明らかに日本を挑発し、暴発させるためです。

日本は米英にはめられた!:日米開戦外交の裏側(金子 熊夫)
(画像=ヤルタ会談(1945年2月)のチャーチル、ルーズベルト、スターリン(左から)、『アゴラ 言論プラットフォーム』より引用)

今考えると、仏印と中国本土からは段階的に撤退し、満州は条件闘争に持ち込むという手もあったのではないかと思いますが、いずれにせよ、ハル・ノートを最後通牒と受け取った日本政府は、ついに堪忍袋の緒が切れたように一気に真珠湾攻撃を仕掛ける方向に突き進んだわけです。これはまさに、乾坤一擲のちゃぶ台返しにほかなりません。

しかし、日本の暴発で一番喜んだのは、ルーズベルトとチャーチルで、ルーズベルトは、待っていましたとばかり、翌日議会で日本軍の「卑怯な奇襲攻撃」に対する仕返しという形で対日宣戦布告を宣言。一方のチャーチルは「真珠湾攻撃は神の救いだ。これで戦争に勝った」とその日の日記に記しました。米国は日本政府や日本軍の暗号電報の解読に成功していたので、事前に知らなかったはずがありませんが、両人としては、「日本がまんまと罠にはまった。しめた!」と思ったことでしょう。日米が開戦すれば三国同盟で自動的に米国は、日本の同盟国であるドイツとも敵対関係に入れるからです。言い換えると、日本は真珠湾で戦術的勝利を収めたものの、戦略的には大失敗を犯したということです。

容共的だったルーズベルト

こうしたことは、現在では外交史の専門家でなくても、一般常識化していると言ってよいと思いますが、実は、当時の日本人もルーズベルトとチャーチルがつるんでいることはなんとなく感じていたことです。その証拠に、真珠湾攻撃当時まだ5歳の子供だった私たちでさえ、ルーズベルトとチャーチルには特別の憎悪と敵愾心を抱き、替え歌で“ルーズベルトのベルトが切れて、チャーチル散る散る国が散る、ヨイヨイ”などと歌った記憶があります。

日本は米英にはめられた!:日米開戦外交の裏側(金子 熊夫)
(画像=「ルーズベルトニ与フル書」を書いた市丸海軍中将、『アゴラ 言論プラットフォーム』より引用)

また、軍人の中でも、硫黄島の戦いで戦死した市丸利之助海軍中将などは、「ルーズベルトニ与フル書」と題する遺書の中で、ルーズベルトの外交政策を痛烈に批判し、日本を負かした後は必ずスターリンのソ連が世界の脅威となるだろうと警告しています。今ではこの遺書のことを知る人はあまりいないようですが、まさに慧眼であると思います。

元々ルーズベルトは、思想的に共産主義に寛容で、スターリンとも良好な関係にありました。そのため、彼は、日独との戦争が継続中から、チャーチル、スターリンと頻繁に会って戦後の新しい国際政治システムについて協議していましたが、彼の頭の中には、米英ソ協調構想が基本となっていました。そのことが一番はっきりしているのは、日独伊と戦った「連合国]をメンバーとする「国際連合」(英語では共にUnited Nations)を創設し、その常任理事国は米英ソ(その後仏中を追加)に限り、それぞれ拒否権を持つとしていることです。