お笑いの境界

さて、お笑いとは何かを考えていくと迷路に陥ってしまうものだが、テレビでも、ルッキズムが批判される傾向がある用に聞く。自分の意志で選べないもので評価するのは、人の権利を覆す行為でもあることも確かだから、その流れに社会が向いていることは当然のことだろう。

ちびデブ禿げという三要素を持っている自分としては、過去に、傷ついた経験があり、若い時代に深い影を落としたことも事実ではある。しかし、そうしたルッキズム的な要素をテレビや表現作品で見たとしても、それは表現の自由の範囲だと受け入れてきた。なぜか。第一に、身体的に恵まれていない点では嫌な気はしたが、そうした特徴も個性の1つなのかもしれないと思ったから。第二に、そういう事を言い出すときりがないし、言葉狩りにつながるからだ。

人間の主張や言いたいことは規制されるべきではないと考える(対個人への非人権的な誹謗中傷は別だが)。また、他人に「美人だね」「いけめんだね」「綺麗だね」「かわいいね」というのはDNAだけでなく、その人の努力という面もあるので、少しばかりは褒めたっていいのではとも思う。難しいところではあるが。

そもそもルッキズム的なことを言う人はその人が育った環境、生活空間、世の中のその時の常識・価値観・美意識などの影響を受けているわけで、そういう人に対して「ルッキズムだ!」「美しい人に『美人』とは言っていけない」(某大学教授)などといちいち批判するのも、批判された方がかわいそうな気がする。人間がルッキズムに無意識的に影響されてしまうのはごく自然なことだからだ。

マイクロアグレッションをしていないか?自覚的に

先日ある人権の研修を受講した。その際、「マイクロアグレッション」(微細な攻撃)という点が非常に重視されている。LGBTQの方々は以下のような言葉に傷ついている。

  • 「ぜんぜんそれっぽくないよね」
  • 「ホモかよ」
  • 「(女性の恋人を男性であると想定して)その彼ってどんな人なの?」

マイノリティの人たちはこういう何気ない言葉を発せられて、傷ついている。人間社会のコミュニケーションの中でのマイクロアグレッションは気を付けていかなくてはならない時代に入ったということだろう。多くの人もいろいろな面でマイノリティな面を持っているはずだから、このことは理解できるだろう。僕たち・私たちは相手がどう感じているのか、の配慮はすべきだし、出来る限りその姿勢を持ち続けたいものだ。

ただし、後々言葉を発した後、「しまった」と気づくことは難しいために、僕たちも何の気なしにしている可能性があることも自覚しなくてはならないだろう。自分の発言が相手にとってどう捉えられるか、解釈されるかは相手が決めることだからだ。もちろん意図的なマイクロアグレッションは許されるべきではない。

ただ、ルッキズムに関してはなかなか難しい。「イケメンだね」「美人だね」「ぶさいくだよね」というやり取り、そういう言葉を交わすというのは社会のコミュニケーションの一部でもある。仮に「傷つく人がいる」という根拠で規制したり、ルールや禁止事項を作ってしまっても、結果、「きもい」「生理的に無理」といったよく言われる感情や感覚、差別意識などは水面下に潜んでしまって根本的な問題解決にならないのではないかとも思う。人間はそうした偏見・違和感をなぜ持つのか、を考えて対処していくことの方が重要な気がする。

文・西村 健/提供元・アゴラ 言論プラットフォーム

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