アレクサンドロス大王の後継国家のなかで有名なのは、クレオパトラを出したエジプトのプトレマイオス朝だが、セレウコス朝やそこから独立したギリシャ人の諸王国も東西の架け橋として世界文明の発展に寄与した。

アショーカ王は継承のため多くの兄弟を殺し、さらに東部のカリンガ国を征服した際には数十万人を殺したが、これを機に人生観を変え、仏教へ帰依した。

彼はダルマ(法)による統治をめざし、殺生や肉食の禁止、年長者や父母を大事にすること、礼儀を正しくすること、布施をすること、奴隷や貧民を大事にすることを命じ、世界史ではじめて人類愛による統治を実現したと言われる。仏舎利を細かく分けて各地に塔を建て、第3回の仏典結集で教義の確立を試み、西方や南方への布教にも努めた。

この時代のインド文化はペルシャやギリシャの影響を受け、壮麗な宮殿や各地の円柱、岩壁を削って事跡を記した。アショーカ王の時代が世界史的にヘレニズム時代であることは、仏教の歴史を理解する上で大事である。

仏教は南方に伝わって上座(小乗)仏教となり、北西インドでは修行者自身だけでなく大衆を救済しようという大乗仏教が発達し、紀元前後にはハイバル峠をはさんだアフガニスタンやパキスタンでガンダーラ文明が栄えた。

紀元前2世紀には、ギリシャ人たちがアフガニスタン北部に建国したバクトリアが北西インドに南下し、メナンドロス(在位前155年頃~前130年頃。ミリンダ王)は仏教の僧との長い対話ののちに仏教に帰依した。

経典は釈尊の死の翌年に長老たちが集まった「第一次仏典結集」から始まり、四回の結集を経て体系化された。初期に成立したのは阿含経などだが、大乗仏教では一世紀頃に成立した法華経が釈尊の真意を探求した最終成果物とされている。

ギリシャ彫刻の技法で仏像がつくられ、日本にもその影響が及んだ。イラン系クシャーナ朝のカニシカ王(二世紀)は敬虔で模範的な仏教徒として現代日本でも尊敬され、池田大作の『私の人物観』でもアショーカ王と並んで取り上げられている。