大規模な出来事と偉大な砂粒とを結びつけようとする心理的欲求がどれだけあろうとも、この考え方は捨てなければならない。 (中 略) 砂山には常に、一粒の砂の落下が世界を変える影響を引き起こすような場所が存在する……そのような砂粒は、たまたまその場所にその時間に落ちたというだけの理由から、特別なものとなるのだ。

臨界状態にある世界では、偉大な役回りは必ず存在し、そこに当てはめられる砂粒も必ず存在する。

単行本版『歴史の方程式』274頁 (改行を付与)

大事なのは「崩れかけている砂山」という構造ないし環境があったことで、たまたまそれを崩した砂粒だけを見てもしょうがない。ところが、ジッショーな歴史学者は頭が悪いので(苦笑)、うおおお俺の方がアイツより正確にどの砂粒か特定したぜ! みたくドヤってしまう。

ボードゲームをプレイすると、誰かが最後には勝つので、自ずとストーリーが生まれる。敗者も交えて、「あの一手」が決定的だったね、といった感想戦が盛り上がる。だけど自分も一緒に体験しているから、そうした因果関係が、「作られたもの」であることが見えやすい。

実際にそこが分水嶺だったとしても、あらかじめその一手を「打てる」状態にあったことが、まず大事である。さらには他の参加者が、そのとき違った対応をしていれば、決定的な打撃にはならず、もっと後の別のタイミングが「勝敗の分かれ目」になったかもしれない。

わかる方には自明でしょうが、 砂粒の喩えはカオス理論由来です。 写真はこちらのまとめから

そうした「偶然性の自覚」を持つことは、いま、とても大切である。

よく言われる「生きづらさ」の正体は、要は特定のストーリーしか認められない環境のことである。で、それは必然なんだ、決まってるんだ、変えようがないんだとする空気が、ストーリー音痴な人の増加とともに、自己啓発めいた媒体を通じてどんどん強まっている。