さて今年も敗戦記念日がきました。世間では終戦記念日といっていますが、それは敗戦を認めたくないからでしょう。売春を援助交際と言い換えるようなものです。

名称が変わると中身も違うように自分をだますのは日本人の通弊です。

戦時中は全滅を玉砕、撤退を転進、戦後は占領軍を 進駐軍と言ったり。

平和主義者の人たちがなんでこんな胡乱な名称を是正しないの?

そろそろ敗戦記念日と改称すべきです。

そして巷ではお気持ち平和主義の大安売りです。別に戦争体験を語るなとはいいません。

ですが日本の平和主義者はそのお気持ちだけを大切にする。なぜ戦争が起きたのか、それをどうして防げなかったか。そういうことを真摯に調べたり考えたりしません。

ひたすら悲しかった、悲しかった、憲法九条を大事にしましょうと念仏を唱えるだけです。

だからぼくはお気持ち平和主義とか、念仏平和主義と呼んでいます。それが機能するならばガザやウクライナにいって実践してほしい。

率直に申し上げて吉永小百合とか百害あって一利なしです。

お気持ち平和主義は反知性主義です。

それは知性や実務の否定です。医者が患者に「私は健康が好きです。ですから病気や怪我といった忌むべきことについて知るつもりはありません。あなたのために祈ります。さあ、病気の全快を願って千羽鶴を折りましょう!」とかいうようなものです。

こういう気持ちが根底にあってもいいのですが、それだけを繰り返して軍事や戦争について学ぼうとせず、お気持ちだけを押し付けてくる。それが拝み屋ならいいのですが、国会議員や学者ですから始末が悪い。

そのベクトルの反対にいるのが戦争ボケです。ひたすら大日本帝国や特攻を美化礼賛する人たちです。反知性主義という意味でこれら二つの勢力は合わせ鏡です。

ぶっちゃけた話、特攻なんて例えば損切りが下手くそなギャンブラーが、金が無くなって子供の給食費や会社の金に手を付けて、それでもギャンブルがやめられずに娘を売り飛ばすようなものです。で、梅毒で娘が死んだら、それは美しい犠牲であり、親孝行だと礼賛するようものです。