その3ヶ月前の「対欧州戦勝日(VEデー)」では、大勢の観衆がウィンストン・チャーチル首相の演説に耳を傾けていたが、1945年7月に行われた総選挙でチャーチル率いる保守党は敗北。勝利したのはアトリーの労働党だった。

選挙戦では、労働党は石炭や鉄鋼といった産業の国有化、国民保健サービス(NHS)の提供、全国的な住宅建設計画の実施を公約としてあげていた。戦時中に国家が用いた広範な権限を、市民の生活向上のために活用することは、「平和を勝ち取ること(winning the peace)」と表現された。

国民は「大戦は単に枢軸国を打ち負かすためだけでなく、より公正な社会を築くために戦われたのだと信じた」。労働党に将来を託したのである。

英軍人たちは

帝国戦争博物館によると、日本が降伏したというニュースは、連合国の軍人たちに安堵感をもたらしたという。もはや戦闘で死傷する危険はなくなったからだ。太平洋やビルマ(現ミャンマー)で従軍していた多くの兵士たちは、もうすぐ愛する家族のもとに帰れる希望を抱いた(英国はミャンマーをビルマと呼び続けているため、以下は「ビルマ」と表記する)。

ビルマのラングーン(現ヤンゴン)で従軍していたドナルド・ラッシュブルックはこう回想している。「すべてが終わったんだ。みんな『家に帰るぞ 』と言っていた」。

日本軍に捕らえられた連合軍捕虜の多くにとって、捕虜生活の肉体的・精神的衝撃は、その後の生涯にわたって続くことになる。

「1942年から1945年の間、第2次大戦中に日本軍の捕虜となった6万人以上の英国、英連邦諸国、オランダの兵士たちがタイとビルマを結ぶ『泰緬(たいめん)鉄道』の建設に従事させられ、1万6000人が命を落とした」。

「同じく建設に動員されたタイ、マラヤ*、ビルマ、オランダ領東インド(現在のインドネシア)出身の民間人約27万人のうち、死亡者数は10万人以上にのぼった」(*マラヤ:英植民地だったマレー半島の南部とボルネオ島の一部を指す地域名)。

日本の被害は