第二次世界大戦における連合国の主な指導者は、ルーズベルト米大統領と後任トルーマン、チャーチル英首相、そしてソ連首相スターリンだ。ポツダム会議の開催もこの3人によって決められた。が、日本の交戦国でなかったソ連のスターリンは発出者から外れた。トルーマンとバーンズ国務長官はスターリンに因果を含め、ポツダムから電話で蒋介石に宣言の内容を伝えて承諾を取り、代理署名した。

チャーチルが外れたのは、7月5日から26日まで行われた10年振りの総選挙で、アトリー率いる労働党にチャーチル保守党が大敗したから。ポツダム会談の主目的はドイツの処理であり、交戦中だがほぼ帰趨が決した日本のことは従だった。その対独戦を主導したチャーチルが、ドイツの戦後処理に関われなかったのである。なお、アトリー政権は51年10月26日まで続いたから、日本のサンフランシスコ平和条約もアトリー政権下のことだ。

5月8日のドイツ崩壊から3週間余り経った6月1日、トルーマンはチャーチルに、スターリンが7月15日ごろベルリンで「三者」会談を行うことに同意した旨知らせた。チャーチルは、ベルリン行は歓迎だが、「私は激烈な選挙戦」の最中にある。それは会談の重要さとは比較にならないが、出来れば6月半ばから7月初めの日取りを、と打診した。

が、トルーマンは、熟慮の結果として7月15日が最も早い時期であると回答した。チャーチルは「私はそれ以上問題を押し返すことが出来なかった」と『第二次世界大戦4』に記している。トルーマンがその日に固執したのは原爆実験のためだ。成功の報は7月16日にポツダムにもたらされ、共有したチャーチルは「我々は(対日戦に)ロシアを必要としなくなった」と書いた。

その原爆が、チャーチルが野に下った翌8月6日と9日に広島と長崎に落とされた。ポツダム宣言は14日、日本によって受諾された。「物価高騰、首都直下型地震や南海トラフ地震」も重要だろう。が、関税交渉は決着したし、参院選の総括は昨秋の衆院選の分を含めて、後継総裁がすべきだろう。石破氏には一人の個人として戦後80年目の8月を過ごすことを勧める。