「信仰告白」と「信仰秘匿」は対照的な概念だ。後者の場合、信者によっては「自身や家族の安全」のために「信仰告白」ができないことに苦悩せざるを得ない。「信仰告白」は、神への忠誠を示す積極的な行為である一方、「信仰秘匿」は、状況によっては、自己保護のための苦悩に満ちた選択となる。
世界では今日、「信教の自由」が保障されている国が多いが、少数宗派の場合、既成の大宗教の圧力もあって「信教の自由」が奪われている場合もある。実際、イスラム教圏では少数宗派のキリスト信者への弾圧は続いている。「信仰告白」したために殺害されたキリスト信者も少なくない。
今回のコラムで「信仰告白」と「信仰秘匿」について書いたのは、シリアでドゥルーズ派の信者たちがスンニ派などのイスラム教徒から迫害を避けるために時として「信仰隠し」を行っていると聞いたからだ。なお、シリア南部スワイダ県で今月13日以来、少数宗派ドゥルーズ派とイスラム教スンニ派とされるベドウィン(遊牧民)の間で衝突が起き、これまでに300人以上が犠牲となっている。
日本の歴史でもクリスチャン弾圧があった。遠藤周作の小説「沈黙」では、「信仰告白」と「信仰隠し」の間で葛藤するクリスチャンの姿が描かれている。最近では、宗教法人の解散命令が出た「世界平和統一家庭連合」(旧統一教会)の信者たちへの異常とも思える魔女狩りに直面し、「信教の自由」を訴える信者たちがいる一方、「信仰秘匿」の道を行かざるを得ない信者たちが出てくるかもしれない。
いずれにしても、旧統一教会つぶしに躍起となってきた左派系メディアや一部の政治家たちは、「信仰秘匿」に追い込まれる宗教者たちの苦悩に対して、いつかは償わなければならないだろう。歴史はそのことを私たちに教えている。
編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2025年7月日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。