「分かっているが、やめられない~」の世界の極致は、イギリスの小説家ジョージ・オーウェルが小説「1984年」の中で描いた「ビック・ブラザー・イズ・ウオッチング・ユー」の世界だ。「2+2」は4ではなく、5だと教えられる。その掟を破れば処罰される。矛盾、虚偽が正当化された世界だ。

存在が矛盾を抱えている時、その存在は本来、苦悩せざるを得ない。なんとか矛盾から脱出したいともがく。その苦悩から解放されるために、宗教と科学が生まれてくる。科学者は宇宙・森羅万象から知を探求し、宗教者は自身の矛盾からの脱皮を求め修行を繰り返す。宗教が先行していた中世では科学は異端視され、科学至上主義の現在は宗教は科学から軽視される、といった具合だ。

キリスト教を世界宗教にした聖パウロは「私は、内なる人として神の律法を喜んでいるが、私の肢体には別の律法があって、私の心の法則に対して戦いをいどみ、そして、肢体に存在する罪の法則の中に、私を虜にしているのを見る。私は、なんというみじめな人間なのだろう」(「ローマ人への手紙」第7章22節~24節)と嘆いている。まさに、聖パウロ自身が「分かっているがやめられない」という矛盾の中に生きていることを告白した有名な箇所だ。

ところで、聖パウロですら矛盾と葛藤の世界で苦悩しているとしたら、通常の私たちはその矛盾の世界での戦いに勝利することなど期待できない、といわれれば、その通りだよな、と言わざるを得ない。ただ、聖パウロもそうだったが、私たちは本来、何が善であり、悪かを知っているのだ。そして悪事をすれば、自分は知っているから、程度の差こそあれ良心の呵責に悩みだすことになる。

バチカンの使徒パウロ VvoeVale/iStock

「聖パウロの悩み」はAIになく、人間だけが共有しているものだ。人間の威厳はそこにあるのかもしれない。アベルを殺害したカインの子孫には「カインの印」が記されているというが、矛盾の世界に落ちてしまった私たちも皆、知っている。すなわち、私たちには「神の印」が捺されているわけだ。